■第6章 第1節:帰る(上)
朝は静かに来た。前日のような張りつめた空気はなく、ゆっくりとした光が部屋の中に広がっていく。窓の隙間から入る風も穏やかで、夜を越えたことがはっきりと分かる朝だった。
ミアの呼吸は安定している。熱はまだ残っているが、昨日より確実に下がっている。眠りも浅くなり、時折わずかに体を動かす。完全ではないが、移動を考えていい状態に入っていた。
シャーロットはその様子を確認しながら、ゆっくりと立ち上がる。
「……いけそう」
小さく呟く。
クロエが答える。
「短距離であれば問題ありません」
「うん」
今日は動く日だ。
ここでやることはやった。繋いだ。持たせた。あとは、場所を変える。
シャーロットはリナを見る。
リナはもう起きていた。昨夜よりも顔色は少し良いが、疲れはまだ残っている。それでも、目はしっかりしていた。
「……動く?」
リナが聞く。
「うん」
シャーロットは頷く。
「今日、帰る」
その言葉に、リナの指が少しだけミアの手を握り直す。
「……帰る」
小さく繰り返す。
それは確認でもあり、自分に言い聞かせる言葉でもあった。
シャーロットは続ける。
「急がない。ミアの状態見ながら、ゆっくり」
リナは頷く。
「……うん」
その返事は、昨日よりも迷いが少なかった。
シャーロットは簡単に準備を始める。持ってきた道具をまとめ、使い切らなかった薬を確認する。余計なものはない。最初から最小限だ。
「……クロエ」
「はい」
「ミア、どう運ぶ?」
クロエはすぐに答える。
「抱えての移動が最適です。揺れを最小限に抑えます」
「だよね」
シャーロットは少しだけ考える。
「私が持つ」
クロエがわずかに視線を動かす。
「問題ありませんが、体力消耗が発生します」
「分かってる」
シャーロットは短く答える。
「でも、その方がいい」
理由は言わない。
ミアを運ぶ。
それはただの作業ではない。
シャーロットはミアのそばに座る。
「……少し動かすね」
小さく声をかける。
返事はない。
でも、呼吸は乱れない。
シャーロットは慎重にミアの体を起こす。軽い。想像していたよりもずっと軽い。それが、少しだけ胸に引っかかる。
「……大丈夫」
自分に言うように呟く。
ミアの体を抱える。できるだけ揺らさないように。腕の中に収める。
ミアはわずかに顔を動かすが、目は開けない。
呼吸はそのまま。
「……いける」
シャーロットが言う。
クロエが頷く。
「安定しています」
リナはその様子をじっと見ていた。
「……重くない?」
小さく聞く。
シャーロットは少しだけ笑う。
「軽いよ」
それは本当でもあり、そうじゃなくもあった。
リナは何も言わない。
ただ、少しだけ視線を落とす。
シャーロットはそれ以上触れない。
今は余計なことを言わない方がいい。
「リナは、荷物少しだけ持って」
袋を差し出す。
リナはそれを受け取る。
「……これだけ?」
「うん」
「……少ない」
「少なくていい」
シャーロットは言う。
「持てる分だけでいい」
リナは頷く。
それで十分だ。
準備は終わる。
あとは出るだけ。
シャーロットは一度だけ部屋の中を見る。
ここでの時間は短かった。
でも、確かに何かがあった。
止まっていたものを、少しだけ動かした。
それだけ。
「……行こう」
シャーロットが言う。
リナは扉の方を見る。
その視線は、すぐには動かない。
この場所を離れる。
その重さは消えない。
シャーロットは何も言わない。
急かさない。
リナはゆっくりと視線を戻す。
ミアを見る。
それから、扉を見る。
そして――
一歩、踏み出す。
それで十分だった。
シャーロットは扉を開ける。
外の光が差し込む。
昨日よりも明るい。
空気も軽い。
村は完全ではないが、動いている。
人の気配がある。
音がある。
それでも、ここを離れる理由は変わらない。
シャーロットは一歩外に出る。
ミアを抱えたまま。
リナとクロエが続く。
後ろで扉が閉まる。
その音は、小さかった。
でも、はっきりしていた。
戻る場所ではある。
でも、今は離れる場所。
シャーロットは振り返らない。
前を見る。
道は長くない。
でも、短くもない。
「……ゆっくり行こう」
小さく言う。
クロエが答える。
「はい」
リナは何も言わない。
ただ、シャーロットの後ろを歩く。
ミアの様子を見ながら。
一歩ずつ。
ゆっくりと。
村を抜ける。
井戸の前を通る。
昨日の老人がこちらを見る。
何も言わない。
ただ、軽く頷く。
シャーロットも頷き返す。
それで十分だった。
村の端に出る。
草の匂い。
風の音。
昨日来た道。
同じはずなのに、少し違う。
「……帰るね」
ぽつりと呟く。
その言葉は、誰に向けたものでもない。
ただ、自分の中で区切りをつけるための言葉だった。
クロエが横で言う。
「距離、問題ありません」
「うん」
シャーロットは歩き出す。
ミアを抱えたまま。
リナが後ろにつく。
少しだけ間を空けて。
でも、離れない。
その距離が、今の関係だった。
道は静かだ。
風が通る。
草が揺れる。
足音が重なる。
それだけ。
でも――
その中に、確かな変化がある。
三人だった。
今は、四人。
それだけで、歩く意味が少し変わる。
シャーロットは前を見たまま、少しだけ息を吐く。
「……増えたね」
ぽつりと呟く。
クロエが答える。
「はい」
それだけ。
でも、その一言で十分だった。
リナはそのやり取りを聞いて、少しだけ首を傾げる。
何の話か分からない。
でも、否定もしない。
ただ、歩く。
ミアの呼吸は安定している。
揺れは少ない。
このまま行ける。
シャーロットは歩き続ける。
白花の薬屋へ。
自分の場所へ。
新しく増えたものと一緒に。
その一歩は、昨日までとは確かに違っていた。




