■第5章 第5節:一緒に来る?(下)
決めたあとの空気は、驚くほど静かだった。何かが終わったわけではない。むしろ、ここから始まるはずなのに、部屋の中には大きな変化の音はない。ただ、リナの肩にかかっていた見えない重さが、ほんの少しだけ位置を変えたような感覚があった。
ミアは眠ったまま、安定した呼吸を続けている。熱はまだあるが、落ち着いている。急に悪くなる気配はない。ここからは時間をかけて戻していく段階だ。
シャーロットは容器を手に取り、少量の水を整える。薬を強くする必要はない。むしろ、余計なことをしない方がいい。ここまで繋いだ流れを、そのまま続ける。
「……これ、少しだけ」
リナに渡す。
リナは迷わず受け取る。もう手の動きは止まらない。ミアの口元に運び、呼吸に合わせて少しずつ飲ませる。
「……できてる」
シャーロットが小さく言う。
リナは何も言わないが、動きは安定している。
それでいい。
クロエが入口の方を一度だけ確認する。
「外、動き増加」
「うん」
シャーロットは頷く。
そろそろ話す必要がある。
このまま黙って連れて行くわけにはいかない。村の人たちにとっても、この二人は“この村の子供”だ。事情を知らないまま消える形にはしたくない。
「……少し行ってくる」
シャーロットが言うと、リナが顔を上げる。
「……どこ」
「村の人に話す」
リナは少しだけ不安そうな顔をする。
「……行ってもいいって、言われる?」
シャーロットは少しだけ考えてから答える。
「止められるかもしれない」
正直に言う。
リナの指がミアの手を少し強く握る。
「……そしたら」
「それでも行く」
シャーロットははっきり言った。
リナが驚いて目を上げる。
「ここで無理するよりいい」
その言葉は揺れない。
リナは何も言わない。
でも、さっきより少しだけ安心した顔をしている。
シャーロットは立ち上がる。
クロエも静かに動く。
「すぐ戻る」
「……うん」
リナは頷く。
その動きは、もう迷いが少ない。
シャーロットは外に出る。
昼の光は少し傾き始めていた。村の中には人の姿が増えている。まだ完全ではないが、昨日の状態とは明らかに違う。
井戸の近くには、朝見た老人がいた。桶を持ち、水を運んでいる。
「……少し話していいですか」
シャーロットが声をかける。
老人は振り返る。
「ああ」
短い返事。
それで十分だった。
シャーロットは近くまで歩く。
「リナとミアのことなんですけど」
その名前を出すと、老人の目が少しだけ動いた。
「……あの子らか」
「はい」
「どうだ」
「落ち着いてきてます」
老人は小さく息を吐く。
「そうか」
それだけで、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
シャーロットは続ける。
「このままだと、二人だけで暮らすのは難しいと思います」
老人は黙る。
否定はしない。
「だから、うちに連れて行こうと思ってます」
その言葉に、老人の視線が少しだけ鋭くなる。
「外の者のところに、か」
「はい」
しばらく沈黙が続く。
風の音だけが通る。
老人はゆっくりと言う。
「……あの子らは、この村の子だ」
「はい」
シャーロットは頷く。
「だから、置いていくのも連れていくのも、勝手にはできん」
「分かってます」
シャーロットは静かに答える。
「でも、このままだと、どっちも持たないです」
老人は目を細める。
シャーロットは続ける。
「今は動けてます。でも、無理してるだけです。リナが倒れたら、ミアを見る人がいなくなる」
その言葉に、老人の表情がわずかに変わる。
「……それは」
否定できない。
分かっている。
でも、どうにもできない。
「うちなら、休めます」
シャーロットは言う。
「水も、食べるものも、薬も、ここよりはあります」
老人は黙る。
しばらく何も言わない。
それから、ゆっくりと視線を落とす。
「……本当は、ここで何とかしてやりたい」
小さな声。
それは、村の人間としての本音だった。
シャーロットは何も言わない。
否定しない。
「だが」
老人は続ける。
「今は、そこまで手が回らん」
その言葉は重かった。
諦めではない。
現実だ。
シャーロットは軽く頷く。
「だから、連れて行きます」
もう一度言う。
老人は顔を上げる。
シャーロットを見る。
その目には、試すような色があった。
「……戻す気はあるのか」
「あります」
即答する。
迷いはない。
「二人が元気になって、自分で決められるようになったら、戻るかどうかはその時に」
老人はしばらくシャーロットを見ていた。
やがて、小さく頷く。
「……なら、止めん」
それだけだった。
許可でもない。
命令でもない。
ただ、止めないというだけ。
でも、それで十分だった。
シャーロットは軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
老人は手を振る。
「礼はいらん」
「……あの子らを、頼む」
その一言は、重かった。
シャーロットはもう一度頷く。
「はい」
それで話は終わった。
シャーロットはその場を離れる。
クロエが横で言う。
「了承ですか」
「止めないってだけ」
「十分です」
「うん」
それでいい。
完全な納得は必要ない。
止められないことが分かっていれば、それで動ける。
家に戻る。
扉の前で一度だけ止まる。
中の気配は変わらない。
安定している。
シャーロットは扉を開ける。
「戻ったよ」
リナがすぐに顔を上げる。
「……どうだった」
「止められなかった」
シャーロットは短く答える。
リナの目が大きく揺れる。
「……いいの」
「うん」
シャーロットは頷く。
「行こう」
その言葉に、リナは何も言わない。
ただ、ミアの手を握ったまま、ゆっくりと頷く。
それだけで十分だった。
シャーロットは部屋の中を見渡す。
ここでやることは終わりに近い。
繋いだ。
持たせた。
あとは、移動する。
「……今日じゃない」
シャーロットが言う。
「もう少しだけ整えてから」
リナは頷く。
「……うん」
ミアの呼吸は安定している。
少しずつ戻っている。
「明日、動く」
シャーロットは言う。
クロエが頷く。
「了解です」
リナはミアを見る。
「……行こうね」
小さく声をかける。
返事はない。
でも、それでいい。
シャーロットは乳鉢に手を置く。
最後の分を作る。
この場所での最後の流れ。
同じ動き。
同じ手順。
でも、意味は少し違う。
「……帰るね」
ぽつりと呟く。
クロエが答える。
「はい」
リナはその言葉を聞いて、少しだけ目を閉じた。
この場所を離れる。
でも、終わりではない。
次に繋がるだけ。
白花の薬屋へ。
四人で。
静かな決断が、ようやく形になった。




