■第5章 第5節:一緒に来る?(中)
午後の光は少しずつ柔らかくなっていた。窓から差し込む明るさは強すぎず、部屋の中にあるものを静かに照らしている。リナとミアの家は、朝に見た時よりも少しだけ空気が動いていた。窓を少し開け、水を入れ替え、床の上に散らばっていたものを端に寄せただけだ。それでも、閉じきっていた場所がほんの少しだけ呼吸を取り戻したように見える。
シャーロットはミアの額に手を当て、熱を確かめた。まだ温かい。けれど、昨夜のような危うさはもうない。呼吸も整い、浅さも減っている。眠っているというより、体が回復するために休んでいる状態に近かった。
「……うん。悪くない」
小さく呟くと、リナがすぐに顔を上げた。
「……ほんと?」
「うん。まだ寝てた方がいいけど、ちゃんと戻ってきてる」
リナはその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。ほっとしたようにも見えるし、まだ信じきれていないようにも見える。無理もない。昨日まで、すべてが悪い方へ転がっていたのだ。急に良くなっていると言われても、すぐに安心できるはずがない。
シャーロットはそれ以上、安心しろとは言わなかった。ただ、水の容器を確認し、次に飲ませる分を少しだけ整える。
「リナも、もう少し食べて」
そう言うと、リナは小さく首を振りかけた。けれど、途中で止まった。さっき言われたことを思い出したのだろう。ミアを守るなら、自分も倒れてはいけない。その言葉が、少しだけ残っているのが分かった。
「……少しだけ」
「うん。少しでいい」
シャーロットは朝に採った柔らかい葉を、もう一度水で洗った。食べやすい部分だけを選び、軽く潰す。薬ではない。ただ、体に入れるもの。リナが飲み込みやすいように、少しだけ水を混ぜる。
リナはそれを受け取って、ゆっくり口に運んだ。苦そうに眉を寄せるが、吐き出しはしない。
「……やっぱり苦い」
「うん。おいしくはないよね」
「……うん」
それでも、食べる。
その小さな変化が大事だった。
シャーロットはミアにも同じように、ほんの少しだけ口元へ運んだ。ミアは眠ったまま弱く反応し、少量を飲み込む。無理はしない。それ以上は与えず、様子を見る。
「これで少し休ませよう」
リナは頷いた。
部屋の中に、静かな時間が戻る。外では村の人たちが少しずつ動いている音がする。けれど、この部屋の中はまだ別の時間を持っていた。止まりかけていた時間が、ゆっくり戻ってきている途中のような空気だ。
シャーロットは作業道具を片付けながら、言葉を探していた。急がないと決めた。けれど、先延ばしにしすぎてもいけない。リナに考える時間は必要だ。でも、考えられるだけの力があるうちに、選択肢を見せる必要もある。
クロエは少し後ろで静かに立っている。何も言わない。ただ見ている。シャーロットが決めるべきことだと分かっているのだろう。
リナはミアの手を握ったまま、視線を床に落としている。さっきからずっと考えているのが分かる。ここに残ること。ここを離れること。家のこと。両親のこと。妹のこと。その全部が小さな体に乗っている。
シャーロットは静かに口を開いた。
「リナ」
「……なに」
「さっきの話、少しだけ続きしていい?」
リナはすぐには答えなかった。ミアを見て、それからシャーロットを見る。やがて、小さく頷いた。
「……うん」
シャーロットはリナの正面に座った。近すぎず、でも逃げるような距離でもない。話すための距離。
「ここが家なのは分かる」
まず、それを言った。
リナの目が少し揺れる。
「お父さんとお母さんがいた場所で、ミアと暮らしてた場所でしょ」
リナは黙って頷いた。
「だから、離れたくないのは変じゃない」
シャーロットは続ける。
「ここに残りたいって思うのも、間違ってない」
リナの唇がわずかに動く。何か言おうとして、でも言葉にはならなかった。
シャーロットはそこで一度だけ息を吸った。
「でも、ここに残るなら、リナが全部やることになる」
リナの視線が止まる。
「水を汲んで、食べるものを探して、ミアを見て、自分も食べて、熱が出たら薬を用意して、村の人に助けてもらえるか分からない中で、ずっと続けることになる」
言葉は柔らかくした。でも、曖昧にはしない。
「できる?」
リナは答えない。
すぐに「できる」と言わないところが、リナらしかった。できないことを分かっている。でも、認めたくない。認めたら、ここにいられなくなる気がするのだろう。
「……やる」
しばらくして、リナは小さく言った。
「私が、やる」
シャーロットは否定しなかった。
「やろうとしてるのは分かる」
「……じゃあ」
「でも、今のリナはもう限界に近い」
その言葉に、リナの肩がわずかに固くなる。
シャーロットは静かに続ける。
「昨日の夜、少し眠っただけだよね。食べるのも足りてない。ミアのことをずっと見てた。今は動けてるけど、このままだとリナが倒れる」
リナはミアの手を握る力を強くした。
「……倒れない」
「倒れるよ」
シャーロットは珍しく、はっきり言った。
リナが驚いて顔を上げる。
シャーロットは目を逸らさない。
「倒れないって思ってても、体は止まる。そうなったら、ミアを見る人がいなくなる」
リナの表情が揺れる。
その一言は、届いた。
自分が倒れることより、ミアを見られなくなること。その方がリナには重い。
「……でも」
声が小さくなる。
「ここ、離れたら」
そこで止まる。
シャーロットは待った。急かさない。リナが自分の言葉で言うのを待つ。
「……お父さんと、お母さんが、いなくなる」
その言葉は、静かだった。
泣いてはいない。
でも、泣くより重かった。
シャーロットはしばらく黙った。簡単に「そんなことない」と言ってはいけない気がした。リナにとって、この家は両親と繋がる最後の場所なのだ。そこを離れることは、ただの引っ越しではない。
「……いなくならないと思う」
シャーロットはゆっくり言った。
リナが顔を上げる。
「でも、ここに残ってリナとミアが倒れたら、それこそ何も残らなくなる」
リナは息を止めたように動かなくなった。
シャーロットは続ける。
「二人が生きてたら、覚えていられる。戻ってくることもできる。でも、ここに無理して残って壊れたら、それもできなくなる」
リナの目が大きく揺れる。
「戻って……これる?」
「うん」
シャーロットは頷く。
「今すぐ全部捨てる話じゃない。元気になって、ちゃんと歩けるようになって、考えられるようになってから決めてもいい」
リナはミアを見る。
静かに眠っている妹を。
「……ミアも?」
「うん。ミアも」
「……一緒に?」
「一緒に」
その言葉を聞いて、リナの肩から少しだけ力が抜けた。
離れることと、置いていくことは違う。
それを、今やっと理解し始めたようだった。
シャーロットはそこで、ようやく本題を出した。
「私のところに来る?」
リナは顔を上げた。
「……薬屋?」
「うん」
シャーロットは頷く。
「白花の薬屋。小さいけど、寝る場所はどうにかする。薬も作れる。食べるものも、ここよりはある」
リナは黙って聞いている。
「リナに何かを全部やれって言わない。ミアが元気になるまでは休んでいい。リナも休んでいい」
その言葉に、リナは少しだけ困ったような顔をした。
「……休むの、分からない」
シャーロットは少しだけ笑った。
「じゃあ、それも少しずつ覚えよう」
リナは答えない。
でも、拒絶もしない。
クロエが静かに口を開いた。
「現実的には、その選択が最も安全です」
リナはクロエを見る。
少しだけ警戒が戻る。クロエの雰囲気が人とは違うことを、リナも感じているのだろう。
クロエはそれ以上近づかず、淡々と続ける。
「この村に姉妹だけで残る場合、再度体調を崩す可能性が高いです。シャーロットの薬屋に移動すれば、水、食料、薬、休息の条件が改善されます」
「……難しい」
リナが小さく言う。
シャーロットは思わず少し笑った。
「簡単に言うと、うちに来た方が休めるってこと」
リナはシャーロットを見る。
「……怒られない?」
「誰に?」
「……迷惑って」
シャーロットはすぐに首を振った。
「言わない」
「でも、二人だよ」
「うん」
「ミア、まだ動けない」
「うん」
「私、何もできない」
その言葉に、シャーロットは少しだけ眉を下げた。
「今はできなくていい」
リナは納得できない顔をする。
「でも」
「元気になったら、その時考えればいい」
シャーロットは言う。
「店番でも、掃除でも、薬草を分けるのでも、できることはあると思う。でも今は、まず寝て食べること」
リナは黙った。
自分に価値がないと考えているわけではない。ただ、何も返せない状態で誰かについて行くのが怖いのだろう。
シャーロットはその気持ちも少し分かる。
だから、言葉を選ぶ。
「リナ」
「……なに」
「これは、借りでいいよ」
リナが目を瞬かせる。
「借り?」
「うん。元気になったら、少しずつ返して」
それなら受け取りやすいかもしれないと思った。
助けられるだけではなく、いつか返せるものにする。
リナはその言葉を何度も考えているようだった。
「……返せる?」
「返せるよ」
「何を?」
「その時考えよう」
リナは少しだけ困った顔をした。
でも、さっきより表情が柔らかい。
「……ずるい」
「そう?」
「うん」
リナは小さく言った。
その声には、ほんの少しだけ子供らしさが戻っていた。
シャーロットは静かに待つ。
ここから先は、リナが決めることだ。
連れて行くことはできる。けれど、引きずることはしたくない。選ばせる。小さくても、今のリナにとってそれは大事なことだ。
長い沈黙が落ちた。
ミアの呼吸が静かに続く。
外では村の音が少しずつ遠くなる。
リナはミアの手を握ったまま、ずっと考えていた。
やがて、小さく口を開く。
「……ミアが」
そこで一度止まる。
「ミアが、行ってもいいなら」
シャーロットは頷く。
「うん」
「……私も、行く」
その声はとても小さかった。
でも、はっきりしていた。
シャーロットはすぐに笑わなかった。喜ぶより先に、その言葉の重さを受け止めたかった。
「分かった」
短く答える。
リナは少しだけ不安そうに見る。
「……ほんとに?」
「うん」
シャーロットは頷く。
「一緒に行こう」
その瞬間、リナの目が少しだけ濡れた。
でも、涙は落ちない。
リナはミアの手を握ったまま、小さく頷いた。
クロエが静かに言う。
「……増えましたね」
シャーロットは振り返る。
その声は淡々としているが、否定ではない。
シャーロットは少しだけ笑う。
「うん。増えたね」
リナはそのやり取りを不思議そうに見ていた。
シャーロットは立ち上がる。
「すぐには動かない。ミアの状態をもう少し見て、移動できるようになってから」
リナは頷く。
「……うん」
「村の人にも話す」
「……うん」
「それから、帰ろう」
帰る。
そう言った瞬間、シャーロット自身も少しだけ不思議な気持ちになった。
白花の薬屋へ。
自分の場所へ。
そこに、二人を連れて帰る。
それは、ただ助けるのとは少し違う。
暮らす場所へ迎える、ということだった。
シャーロットはミアの様子をもう一度見る。呼吸は安定している。すぐの移動はまだ早いが、近いうちなら可能だろう。
「……もう少しだけ、ここで整えよう」
クロエが頷く。
「はい」
リナはミアの手を握ったまま、静かに座っている。
けれど、さっきまでとは少し違う。
行く場所ができた。
それだけで、空気は少しだけ変わっていた。
シャーロットは乳鉢を手元に戻し、次の分の薬を作り始める。
やることはまだある。
でも、方向は決まった。
この家で止まっていた時間は、少しずつ外へ向かって動き出していた。




