■第5章 第2節:残る夜(上)
日が傾ききる前に、やることは決まっていた。白花の薬屋を閉めて外に出るのとは違う、もう一段深い「残る」という選択。その重さは、シャーロットの中で静かに形を持ち始めていた。
小さな家の中は薄暗い。窓はあるが、布で半分ほど覆われているせいで光が入りにくい。外から差し込む夕方の光が、床の一部と壁をかすかに照らしているだけだった。空気はこもっていて、わずかに湿っている。人の気配はあるが、動きはほとんどない。
シャーロットは入口のそばで一度立ち止まり、ゆっくりと目を慣らした。中の様子はさっき見たままだ。横になっている妹と、そのそばに座る姉。どちらも動かない。ただ、姉の方だけが、こちらの動きをずっと見ている。
「……少しだけ、動かすね」
シャーロットは静かに言った。
姉は一瞬だけ迷うように視線を揺らしたが、やがて小さく頷いた。
その動きを確認してから、シャーロットは窓にかけられていた布に手を伸ばす。ゆっくりと外し、光を少しだけ中へ入れる。急に明るくはしない。目が慣れる程度に。
「これくらいでいいかな」
クロエが小さく答える。
「十分です」
光が入るだけで、空気が少しだけ動くように感じた。床の埃が浮かび、ゆっくりと落ちる。長く閉じられていた場所の匂いが、少しだけ外へ逃げていく。
次に、シャーロットは水の容器を確認する。さっきよりも少し減っているが、まだ足りている。クロエが持ってきた分もある。
「……水は大丈夫そう」
「はい。夜までは持ちます」
「うん」
シャーロットは頷き、作業に戻る。
まずは妹の様子を見る。額に手を当てる。熱はまだ高い。だが、先ほどよりわずかに落ちている。呼吸も少しだけ安定していた。
「……少し下がってる」
ぽつりと呟く。
クロエが答える。
「初期処置の効果です」
「まだ安心はできないけど」
「はい」
シャーロットは乳鉢を取り出し、持ってきた薬草を少量入れる。夜の分を作る必要がある。強すぎず、体に負担をかけないもの。さっきと同じ配分で、少しだけ量を調整する。
潰す音が静かに響く。
姉はその音をじっと聞いている。
逃げない。
止めない。
ただ、見ている。
「……名前、聞いていい?」
シャーロットは手を止めずに言う。
少し間があって、返事が返ってくる。
「……リナ」
小さな声だった。
「リナね」
シャーロットは軽く頷く。
「妹は?」
「……ミア」
「リナとミア」
繰り返す。
それだけで、距離が少しだけ変わる。
名前がある。
それだけで、“誰か”になる。
シャーロットは乳鉢から容器へと移し、水を加える。火は使えないため、できるだけ穏やかに調整する。完全な状態ではないが、応急としては十分だ。
「……少しずつでいいから、飲ませて」
容器をリナに渡す。
リナはすぐに受け取らない。
少しだけ見つめてから、ゆっくりと手を伸ばす。
受け取る。
その手は細い。
でも、震えてはいない。
「こうやって……」
シャーロットは簡単に飲ませ方を見せる。
無理に入れない。
少しずつ。
呼吸に合わせて。
リナはそれを見て、同じように動く。
ミアの口元に容器を近づける。
少しだけ飲ませる。
止める。
待つ。
また少し。
その繰り返し。
「……上手」
シャーロットが小さく言う。
リナは何も言わない。
だが、動きは止まらない。
ちゃんと見ている。
ちゃんとやっている。
(大丈夫)
シャーロットはそう思う。
完全に任せられるわけではない。
でも、支えればできる。
それだけで十分だ。
しばらくして、ミアの呼吸が少し落ち着く。
浅かったものが、少しだけ深くなる。
リナがそれに気づく。
「……さっきより、いい」
小さく言う。
「うん」
シャーロットは頷く。
「でも、まだ無理はしないで」
リナはまた頷く。
それ以上は言わない。
言葉は少ない。
でも、必要な分は伝わっている。
外では、日がさらに傾いている。光の色が変わり、家の中も少しずつ暗くなる。
「……火、ある?」
シャーロットが聞く。
リナは首を振る。
「……使ってない」
「そっか」
シャーロットは少し考える。
完全な暗闇にはしたくない。
だが、大きく明るくする必要もない。
クロエが静かに動く。
小さな灯りを取り出し、最低限の明るさを確保する。
「これで足ります」
「ありがとう」
光が少し増える。
部屋の中の輪郭がはっきりする。
それでも、静けさは変わらない。
シャーロットは部屋の隅に目を向ける。
食べ物らしきものは少ない。
ほとんど残っていない。
「……食べてる?」
リナに聞く。
少しだけ間があって、答えが返る。
「……少し」
それ以上は聞かない。
分かる。
足りていない。
でも、今はそれをどうにかする段階ではない。
優先は、ミアの体だ。
シャーロットはポーチを確認する。
持ってきたものは限られている。
薬は使った。
残りは少ない。
「……明日、補充だね」
小さく言う。
クロエが答える。
「必要です」
「うん」
この村の周辺で、何か使えるものがあるはずだ。
完全な解決ではない。
でも、繋ぐことはできる。
それでいい。
シャーロットはゆっくりと座る。
リナと少し距離を取った位置。
近すぎない。
遠すぎない。
「……今日はここにいる」
改めて言う。
リナは顔を上げる。
「……なんで」
小さな声。
疑問というより、確認に近い。
シャーロットは少しだけ考える。
「見えるから」
それだけ言う。
リナは少しだけ目を細める。
意味を考えているのか、それともそのまま受け取っているのかは分からない。
でも、否定はしない。
「……そう」
それだけ言って、視線を戻す。
ミアの方へ。
シャーロットも同じように視線を向ける。
呼吸は少しずつ整っている。
まだ弱い。
でも、さっきよりはいい。
(間に合ってる)
ぎりぎりかもしれない。
でも、まだ間に合っている。
その実感があった。
外はもうほとんど暗い。
村の音は少ない。
遠くで何かが動く気配があるだけだ。
この家の中だけが、静かに時間を持っている。
シャーロットは軽く息を吐く。
「……長くなるね」
クロエが答える。
「はい」
それだけだった。
それで十分だった。
この夜は、ただの通過ではない。
ここから何かが変わる。
その前の、静かな時間だった。




