■第5章 第1節:外へ(中)
近づくにつれて、その場所が村であることははっきりしてきた。
低い柵があり、畑らしき場所があり、いくつかの家が並んでいる。規模は白花の薬屋がある村と似ているか、少し小さいくらいだった。けれど、空気が違う。人が暮らしているはずの場所なのに、生活の音がほとんどしない。鳥の声と、風に揺れる草の音だけが妙に大きく聞こえる。
シャーロットは足を止め、村の入口から中を見た。扉の閉まった家がいくつかある。煙突から煙は上がっていない。畑も手入れが途中で止まったように見えた。完全に放置されているわけではないが、普通に生活している場所にも見えない。
「……静かすぎるね」
小さく言うと、クロエが短く答える。
「はい。活動量が少ないです」
「人はいるんだよね?」
「います。ただし、多くありません」
シャーロットは軽く息を吸った。
ここで引き返すこともできる。素材を探しに来ただけなら、無理に近づく必要はない。危ない可能性もある。知らない場所で、何が起きているかも分からない。
それでも、足は止まらなかった。
「……少しだけ、見よう」
クロエは反対しない。ただ、シャーロットの半歩後ろに立つ。
「危険があれば止めます」
「うん」
それだけ確認して、シャーロットは村へ入った。
道は細く、土が乾いている。人が歩いた跡はあるが、新しいものは少ない。家の前に置かれた桶が倒れたままになっていて、風で少しだけ転がる音がした。井戸の周りにも人はいない。白花の薬屋の村なら、この時間帯には誰かしら動いている。水を汲む人、畑へ向かう人、家の前を掃く人。けれど、ここにはそれがない。
(何かあったんだ)
そう思う。
大きな破壊の跡はない。魔物に襲われたような爪痕も、焼けた家もない。だから一見すると静かな村に見える。でも、生活が止まっている。
しばらく歩くと、一軒の家の扉が少しだけ開いた。
中から誰かがこちらを見ている。
シャーロットは足を止める。
「こんにちは」
できるだけ柔らかく声をかけた。
返事はない。
けれど、扉は閉まらなかった。
中にいるのは大人だろうか。影だけでは分からない。ただ、こちらを警戒しているのは分かった。
「旅の途中です。少し通りかかって……」
そこまで言ったところで、家の中からかすれた声がした。
「……何しに来た」
男の声だった。弱く、少し荒れている。
「素材を探していて、近くまで来ました。この村、少し様子がおかしい気がして」
男はしばらく黙った。
それから、ゆっくりと扉が開く。
出てきたのは、痩せた中年の男だった。顔色は悪く、目の下に深い影がある。怪我はないように見えるが、疲れがひどい。
「余所者が来る場所じゃない」
男はそう言った。
拒絶というより、忠告に近い声だった。
シャーロットは少しだけ考えてから、素直に頷く。
「そうかもしれません」
男は意外そうに眉を動かした。
「でも、困ってる人がいるなら、少しだけ見ます」
その言葉に、男の表情が少し変わる。警戒は残っているが、完全な拒絶ではなくなった。
「……薬師か?」
「薬屋です」
シャーロットはそう答えた。
まだ自分で言うのは少しだけ慣れない。でも、今はその言葉が一番近かった。
男の視線がシャーロットの腰のポーチに動く。それから、クロエを見る。クロエは何も言わず、静かに立っているだけだった。
「薬があるのか」
「少しなら。あとは、材料があれば作れます」
男は喉の奥で小さく息を吐いた。
「……遅かったな」
その言葉は、誰に向けたものでもないように聞こえた。
シャーロットは聞き返さなかった。
聞くべきではない気がした。
代わりに、ゆっくりと言う。
「今、見られる人はいますか」
男は黙ったまま、村の奥を見る。
その視線の先に、いくつかの家があった。
「熱を出してるやつがいる。怪我をしたやつもいる。だが……」
そこで言葉が止まる。
「だが?」
「もう、どうにもならんこともある」
シャーロットの胸の奥が、少しだけ冷える。
その意味は分かる。
全部は間に合わない。
全部は救えない。
そういう場所に来てしまったのだと、分かった。
それでも、見える範囲なら。
シャーロットは一度だけ息を吸う。
「……見ます。できる範囲で」
男はしばらくシャーロットを見る。
それから、小さく頷いた。
「こっちだ」
案内されたのは、村の中央に近い家だった。中には数人が集まっていた。重い病ではなさそうだが、疲労と軽い熱、手当ての遅れた怪我が目立つ。白花の薬屋に来る村人たちより状態は悪い。薬がないまま、時間が経ってしまったのだろう。
シャーロットはすぐにポーチを下ろした。
「重い人から見ます」
男が驚いたように見る。
「分かるのか」
「たぶん」
シャーロットは短く答える。
順番を決める。高い熱がある人、傷が汚れている人、脱水気味の人。できることは限られている。手持ちの薬も多くはない。素材採取用の道具はあるが、ここで大量に作れるわけでもない。
それでも、何もしないよりはずっといい。
「クロエ、水をお願い」
「はい」
クロエはすぐに動いた。
静かで、無駄のない動きだった。
シャーロットは一人ずつ状態を見ていく。持ってきた薬を少量ずつ使い、足りないところは村の周囲にある薬草で補う。完全な治療ではない。劇的に回復するわけでもない。ただ、悪化を止める。少し楽にする。眠れるようにする。
それが今できることだった。
「……これ、少しずつ飲んでください」
熱のある女性に薬を渡す。
「傷は先に洗ってから。これを直接塗りすぎないでください」
怪我をした男に説明する。
「水、飲めるなら少しずつ。無理に一気に飲まないで」
脱水気味の老人に言う。
言葉は短い。
だが、ひとつずつ確実に渡していく。
村の人たちは最初こそ警戒していたが、シャーロットが派手なことをしないのを見ると、少しずつ落ち着いていった。大げさな魔法も使わない。強い言葉も使わない。ただ見て、考えて、必要なものを渡す。その地味さが、逆に安心につながっているようだった。
しばらくして、一通りの応急処置が終わった。
シャーロットは小さく息を吐く。
「……今できるのはここまでです」
案内してくれた男は、深く頭を下げた。
「助かった」
「まだです。様子を見ないと」
「それでもだ」
男の声は低かった。
そこには、どうにもならないものを見てきた人の重さがあった。
シャーロットは何も言えなかった。
すべてを救ったわけではない。むしろ、救えなかったものの方が多いのかもしれない。
でも、目の前にいる人たちは少しだけ楽になった。
それだけは分かった。
家の外へ出ると、空気が少しだけ変わっていた。最初に入った時より、村の中にわずかな動きが戻っている。扉の隙間からこちらを見る人、遠くで様子をうかがう人。完全に安心したわけではないが、閉じきっていたものが少しだけ開いたような感じだった。
「……何があったんですか」
シャーロットは男に聞いた。
男はしばらく黙っていた。
それから、少し離れた家を見た。
「あそこの家の夫婦が、山で事故に遭った」
「事故……」
「ああ。薬草と薪を取りに行って、戻らなかった。探しに行った時には、もう遅かった」
シャーロットは言葉を失う。
男は続ける。
「その後、村の中で熱を出す者が増えた。怪我人もいた。だが、薬も人手も足りん。町へ行ける者も少ない」
小さな村では、一つの出来事が全体に響く。
人が二人いなくなるだけで、仕事が止まる。誰かの手が足りなくなる。薬を取りに行く人も、看病する人も足りなくなる。
「……その夫婦に、子供は?」
シャーロットは静かに聞いた。
男の表情が少しだけ曇る。
「いる」
その一言で、胸の奥が小さく締まった。
「姉妹だ」
男はそう言って、村の奥にある小さな家を見た。
「姉の方は、まだ小さいのに妹の面倒を見てる。だが、もう限界だろうな」
シャーロットはその家を見る。
扉は閉まっている。
けれど、その前に小さな布が干されていた。子供のものだ。
風に揺れている。
「……会えますか」
シャーロットは聞いた。
男は少し迷った。
「今は、そっとしておいた方がいいかもしれん」
「分かってます」
シャーロットは短く答える。
「でも、見えるところにいるなら、見ます」
男はシャーロットを見た。
その言葉の意味を測るように。
やがて、小さく頷いた。
「こっちだ」
シャーロットは歩き出す。
クロエは何も言わず、少し後ろにつく。
村の奥へ向かう道は、さっきよりも静かだった。
閉じた扉。
小さな家。
干された布。
そこに、姉妹がいる。
シャーロットは息を整える。
素材を探しに来たはずだった。
でも、今はもう、それだけではなくなっていた。




