■第4章 第2節:買い物へ(上)
朝の空気はいつもより少しだけ冷えていた。日が昇る前の静かな時間、村はまだ完全には動き出していない。家々の窓は閉じられたままで、煙突からも煙は上がっていない。そんな中、白花の薬屋だけがいつもより早く動いていた。
シャーロットは机の前に立ち、最後の確認をしている。昨日のうちに準備は終えている。必要な分のポーションは並べてあり、今日は店を開けないことも決めてある。簡単な紙に「本日休み」とだけ書き、看板の横に貼ってある。
「……これで大丈夫かな」
ぽつりと呟く。
クロエが短く答える。「問題ありません」
「だよね」
シャーロットは軽く頷く。
完全に安心できるわけではないが、やるべきことはやった。あとは戻ってきてからまた回せばいい。一日閉めるくらいなら、大きな問題にはならないはずだった。
腰に小さな袋をつける。中には今までの対価として受け取った硬貨が入っている。多くはない。だが、何もないよりはずっといい。
「……足りるかな」
小さく呟く。
クロエが言う。「最低限のものは購入可能です」
「最低限、ね」
シャーロットは少しだけ笑う。
全部を揃えるつもりはない。まずは必要なものから。火を安定させるための道具、容器。それが最優先だ。
扉を開ける。
外の空気はひんやりとしていて、少しだけ緊張を和らげてくれる。家の横に立てた看板が目に入る。白花の薬屋。その横に貼った紙も、風に揺れている。
「……いってきます」
誰に言うでもなく、そう呟く。
クロエは何も言わないが、隣に立っている。それだけで十分だった。
村の中を歩く。まだ人は少ない。早く起きている人がちらほらいる程度だ。顔を合わせた何人かが軽く手を上げて挨拶をしてくる。
「今日は開けないのか?」
そう声をかけられる。
「はい、ちょっと町まで」
「そうか、気をつけてな」
それだけのやり取りだった。
大げさなものではないが、それでも“ここにいる人”として扱われているのが分かる。
(ちゃんと馴染んできてるな)
そう思う。
村の端に出ると、道は細くなり、土の色がはっきり見えるようになる。踏み固められた道が一本、外へと続いている。その先に町がある。
「……思ったよりちゃんと道あるね」
シャーロットが言う。
クロエが答える。「人の往来はあります」
「だよね」
完全な獣道ではない。荷車が通れる程度には整えられている。それだけで移動の負担はかなり違う。
歩き始める。
最初はゆっくりとしたペースで進む。急ぐ必要はない。時間には余裕がある。
村の気配が少しずつ遠くなる。
畑が減り、草が増え、やがて低い木が増えていく。風の音が少し変わる。遮るものが減った分、音が広がるようになる。
「……静かだね」
ぽつりと呟く。
クロエが言う。「通常です」
「そうなんだけどさ」
シャーロットは少し笑う。
村の中の静けさとは違う。こちらは“何もない”静けさだ。人の気配が薄く、音が自然のものだけになる。
しばらく歩く。
足元の感触を確かめながら進む。道はしっかりしているが、場所によっては少し柔らかい。雨が降ればぬかるみそうだ。
「これ、雨の日大変そう」
「移動効率は落ちます」
「だよね」
そんな会話をしながら進む。
道の両側には低い草と、ところどころに小さな花が咲いている。白いもの、黄色いもの、名前も知らないものばかりだ。
シャーロットはふと足を止める。
一つの葉を見つけた。
しゃがみ込んで手に取る。
「……これ、使えるかも」
軽く潰して香りを確かめる。
(悪くない)
村の近くで取れるものと似ているが、少しだけ質がいい気がする。
クロエがそれを見て言う。「状態は良好です」
「だよね」
シャーロットは少し考える。
採るか、そのままにするか。
「……今はいいか」
そう言って葉を戻す。
今日は目的が違う。素材を集める日ではない。
「後でまた来ればいいし」
「はい」
クロエは短く答える。
歩き続ける。
太陽が少しずつ上がり、周囲の明るさが増していく。影が短くなり、空の色も変わる。
時間の経過がはっきり分かる。
「どのくらい歩いた?」
シャーロットが聞く。
「約半分です」
「もうそんなに?」
思っていたより早い。
体の負担もそこまで大きくない。
「思ったより楽だね」
「道が整っています」
「それもあるけど」
シャーロットは少し考える。
(動くの、久しぶりだからかな)
薬屋を始めてから、移動はほとんどなかった。家と村の中だけ。その生活に慣れていた。
だからこそ、外を歩くのが新鮮に感じる。
「……ちょっといいね、こういうの」
ぽつりと呟く。
クロエが視線を向ける。
「外に出るの」
「必要な行動です」
「それはそうだけどさ」
シャーロットは少し笑う。
必要だからだけじゃない。
気分としても悪くない。
同じ場所にいるのもいいが、少し外に出ると見えるものが変わる。
それだけで、少しだけ気持ちが軽くなる。
歩き続けるうちに、遠くに何かが見えてくる。
建物の影だ。
まだはっきりとは見えないが、自然の中にある形ではない。
「……あれかな」
シャーロットが言う。
クロエが確認する。「町です」
「思ったより早いね」
「予定通りです」
シャーロットは少しだけ足を止める。
遠くに見える町。
そこには、村にはないものがあるはずだ。
道具、容器、火を扱う設備。
それを手に入れれば、薬の質も安定する。
「……行くか」
小さく呟く。
クロエは何も言わない。
ただ、その隣にいる。
シャーロットはもう一度町の方を見る。
特別大きな場所ではない。
それでも、今の自分にとっては十分だった。
白花の薬屋を整えるための一歩。
その先にある場所。
シャーロットはゆっくりと歩き出す。
町へ向かって。
必要なものを手に入れるために。
その一歩は、確実に前に進んでいた。




