■第3章 第5節:白花の薬屋(中)
昼を少し過ぎる頃には、家の前の気配は落ち着いていた。朝のうちは何人かが続けて訪れていたが、今は足音も話し声も少ない。村全体が一度息を整えているような時間だった。畑に出ていた人たちも昼の休みに入ったのか、外の動きはゆるやかになり、遠くから鳥の鳴き声だけが聞こえてくる。
シャーロットは机の前に立ち、残った容器を一つずつ確認していた。朝に並べていたものは思ったよりも減っている。だが、空になったわけではない。昨日の時点で少し多めに作っておいたことと、午前だけ対応すると決めていたことが効いていた。
「……これくらいなら、まだ大丈夫そう」
小さく呟くと、後ろに立っていたクロエが答えた。
「想定よりは安定しています」
「想定より?」
「昨日の流れなら、もう少し混乱する可能性がありました」
シャーロットは少しだけ笑う。
「そんなに?」
「はい。人は、必要なものが少ない場所では動きが早くなります」
「そういうものなんだ」
「そういうものです」
クロエの言い方は淡々としているが、どこか確信がある。シャーロットはそれ以上深く聞かなかった。クロエがそう言うなら、たぶんそうなのだろう。
机の端に置いた小さな布袋を手に取る。中には今日受け取った代価が入っている。多いとは言えない。むしろ王都の感覚で考えればかなり少ない。けれど、この村ではそれくらいがちょうどいいのだと思えた。
高くすれば、困っている人ほど来られなくなる。安くしすぎれば、こちらが続けられなくなる。その間を探す必要があった。
「……値段って難しいね」
「継続するなら必要な要素です」
「うん。無料だとたぶん続かないし」
シャーロットは布袋を机に戻す。
昨日までは、ただ渡していた。それでよかった。けれど、今日からは違う。白花の薬屋という名前を出した以上、ここは“場所”になった。来る人がいて、受け取る人がいて、そのためのものを作る。そうなると、気持ちだけでは回らない。
それでも、あまり大げさにしたくはなかった。
「でも、しばらくはこのくらいでいいかな」
「理由は」
「村の人が払える範囲じゃないと意味ないし」
「妥当です」
短い返事だった。
シャーロットは少し安心する。クロエが否定しないなら、大きく外れてはいないのだろう。
机を拭き、使った容器をまとめる。空になったものは洗って乾かす必要がある。汚れたまま次に使うわけにはいかない。そういう細かい作業が、思っていたより多い。
薬を作るだけでは終わらない。
渡したあともある。
容器を洗う。素材を分ける。机を整える。お金を置く場所を決める。来た人の症状を覚えておく。
どれも小さなことだが、積み重なると意外と忙しい。
「……薬屋さんって、作るだけじゃないんだね」
ぽつりと漏らす。
クロエは少しだけ視線を動かす。
「当然です」
「だよね」
シャーロットは苦笑する。
分かってはいたつもりだった。でも、実際に始めてみると違う。冒険者の時も準備や確認はあったが、それとはまた別の忙しさだった。
戦うのではなく、続けるための忙しさ。
それは少し不思議だった。
「嫌ではないですか」
クロエが静かに聞いた。
シャーロットは手を止める。
「うーん……嫌ではないかな」
少し考えてから答える。
「忙しいけど、ちゃんと意味がある感じがする」
「意味ですか」
「うん。来た人がちょっと楽になって帰るでしょ。それを見ると、やってよかったなって思う」
言葉にしてみると、思っていたより単純だった。
誰かの役に立ちたい、と大きく言えるほど立派なものではない。けれど、目の前に来た人が少し楽になるなら、それは悪くない。
クロエは黙って聞いていた。
否定もしない。
ただ、受け取っているようだった。
シャーロットは空の容器をいくつか持ち上げる。
「洗ってくるね」
「手伝います」
「大丈夫だよ。そんなに重くないし」
そう言って外へ出る。
家の横に立てかけた看板が目に入る。朝よりも見慣れた気がした。白花の薬屋。まだ少しだけ照れくさい名前だが、嫌ではない。
井戸へ向かう途中、何人かの村人がこちらを見た。昨日までよりも視線が柔らかい。知らない旅人を見る目ではなく、村の中にいる誰かを見る目に少しだけ近づいている。
それが少しくすぐったかった。
井戸のそばには、昨日から何度か話している老人がいた。桶を横に置き、腰を下ろして休んでいる。
「おう、薬屋」
そう呼ばれて、シャーロットは一瞬止まった。
「……薬屋?」
老人は口元を少し緩める。
「看板、出したんだろう」
「あ、はい。一応」
「なら薬屋だ」
あまりにも当然のように言われて、シャーロットは少しだけ困ったように笑う。
「まだ、そんな立派なものじゃないですけど」
「立派かどうかは後で決まる。今は、薬を出してくれるなら薬屋でいい」
その言葉は軽いのに、妙に残った。
薬を出してくれるなら薬屋でいい。
それくらい単純でいいのかもしれない。
「……ありがとうございます」
シャーロットは小さく頭を下げる。
老人はそれ以上何も言わず、桶を指さした。
「水、使うんだろ」
「はい」
「好きに使え」
「助かります」
井戸の水を汲み、容器を洗う。水は冷たく、指先が少し冷える。容器の中に残った薬の匂いが薄れていき、きれいになっていく。
作る前より、片付けの方が地味だ。
でも、こういう作業も嫌ではなかった。
洗い終えた容器を布で拭きながら、シャーロットはふと考える。
(ちゃんとした道具、欲しいな)
今の道具でも作れないわけではない。だが、効率は悪い。容器も足りないし、作業台も古い。火を扱う場所もきちんと整っていない。
今日はまだいい。
明日もたぶんどうにかなる。
でも、続けるなら必要になる。
「……少しずつだね」
ひとりで呟く。
老人がそれを聞いていたのか、少しだけ笑った。
「焦ることはない。ここは、何でも遅い村だ」
「そうなんですか?」
「そうだ。商人も遅い、修理も遅い、若い者が帰ってくるのも遅い」
冗談なのか本気なのか分からない言い方だった。
シャーロットは少し笑う。
「じゃあ、私もゆっくりでいいですね」
「そうしな」
老人は短く言った。
容器を抱えて家へ戻る。扉を開けると、クロエが机の近くに立っていた。何かを動かした様子はないが、部屋の中は少しだけ整っている。机の端に寄せていた素材が、状態ごとに分けられていた。
「あれ、やってくれたの?」
「混ざっていたので」
「ありがとう」
シャーロットは容器を置きながら言う。
クロエは淡々と答える。
「効率が悪かっただけです」
「それでも助かるよ」
素材を見る。良さそうなもの、普通のもの、少し弱いもの。分けられているだけで分かりやすい。
「……やっぱりクロエ、こういうの得意だね」
「観察しているだけです」
「それがすごいんだと思うけど」
クロエは何も言わなかった。
シャーロットは机の前に座り、午後の作業を始める準備をする。
午前は人を見る時間。
午後は作る時間。
その流れを決めただけで、気持ちがだいぶ楽になっていた。
「今日は、昨日より少しだけ多めに作ろうかな」
「理由は」
「明日の朝、慌てたくないから」
「妥当です」
シャーロットは小さく頷く。
素材を手に取る。昨日より迷いは少ない。葉の状態を見て、使うものを決める。すべてが分かるわけではないが、少なくとも外れは減っている気がした。
本を開く。
基本の手順を見る。
そのままではなく、必要な部分だけ使う。
今はまだ、それでいい。
「火は少しだけ使う」
「はい」
「こっちは少し薄める」
「はい」
「これは……分けた方がいいかな」
「その方が安定します」
クロエが短く答える。
作業は静かに進んでいく。
葉を潰し、水と混ぜ、少し温める。強すぎないように、弱すぎないように。感覚だけではなく、本の内容も少しずつ混ぜていく。
出来上がった液体を容器に移す。
色は悪くない。
香りも強すぎない。
「……うん、これなら大丈夫そう」
そう言って、次に移る。
ひとつ作る。
またひとつ作る。
その繰り返し。
派手なことはない。
けれど、昨日より明らかに作業は滑らかだった。
途中で、クロエが言う。
「量を増やすなら、道具が必要です」
「うん、思った」
シャーロットは手を動かしながら答える。
「容器も足りないし、火を使う場所もちゃんとした方がいいよね」
「はい」
「でも、今日はまだこのまま」
「分かりました」
クロエはそれ以上言わない。
先回りして全部を整えようとはしない。ただ、必要なことだけを言う。その距離感がありがたかった。
作業を続けるうちに、外の光が少しずつ変わっていく。
昼の明るさから、夕方へ向かう柔らかい色へ。
シャーロットはふと顔を上げる。
「……けっこう作ったね」
机の上には、朝より少し多い数の容器が並んでいた。まだ店と呼ぶには小さい。だが、明日の分としては十分そうだった。
クロエが確認するように見て、短く言う。
「明日の午前分としては足ります」
「よかった」
シャーロットは椅子に座り直し、軽く息を吐く。
疲れはある。
でも、悪くない。
朝に人を見て、昼に片付けて、午後に作る。そうやって一日が形になっていく。
今までの生活とは違う。
戦いに向かうのでもなく、誰かの後ろを歩くのでもない。
ここにいて、来た人を見て、必要なものを渡す。
それだけ。
けれど、その“それだけ”が今は心地よかった。
「……続けられそう」
ぽつりと呟く。
クロエが静かに見る。
「そうですか」
「うん。たぶん」
シャーロットは少しだけ笑う。
「まだ分からないけどね」
「分からないのですか」
「うん。でも、今のところは嫌じゃない」
それが一番正直な言葉だった。
クロエは少しだけ目を細める。
「なら、十分だと思います」
「そうかな」
「はい」
短いやり取りだった。
けれど、妙に落ち着いた。
外では、白い花が風に揺れている。看板の横で、目立たないまま咲いている。
シャーロットはそれを見ながら、小さく息を吐く。
白花の薬屋。
名前をつけたばかりの、小さな場所。
まだ何も大きなことは起きていない。
薬も特別ではない。
ただ、粗悪なものより少し良くて、村の人たちが必要としている程度のもの。
それで十分だった。
少なくとも今は。
「明日も開けよう」
自然とそう言葉が出る。
クロエは静かに頷いた。
「はい」
その返事を聞いて、シャーロットは少しだけ安心した。
一日が終わるにはまだ早い。
けれど、今日やるべきことは少しずつ形になっている。
白花の薬屋は、静かに始まっていた。
大きく騒がれることもなく、誰かに特別扱いされることもなく。
ただ、村の一角で、必要な人に少しずつ薬を渡す場所として。
それくらいが、今のシャーロットにはちょうどよかった。




