■第3章 第1節:小さな村(下)
井戸のそばに戻ると、さっきの老人はまだ同じ場所にいた。桶を横に置き、腰を下ろしたまま少し休んでいるようだった。
シャーロットはその前で立ち止まる。
「さっきはありがとうございました」
声をかけると、老人はゆっくり顔を上げる。
「おや、また来たのかい」
「はい、ちょっと聞きたいことがあって」
「なんだい」
シャーロットは少しだけ言葉を選ぶ。
「この村って、空いてる家とかありますか?」
老人は一瞬だけ目を細めた。
「……住むつもりかい?」
「しばらく、ですけど」
即答だった。
迷いはなかった。
老人はシャーロットの顔をじっと見る。それから、隣に立つクロエにも視線を向ける。クロエは何も言わず、ただ静かに立っている。
「ふむ……」
短く考えるように唸る。
「あるにはある。だが、ずっと使われてない家だ。手入れは必要だぞ」
「大丈夫です」
シャーロットはすぐに頷く。
「使わせてもらえるなら、それで十分です」
老人はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。
「ついてきな」
短くそう言って歩き出す。
シャーロットはクロエと顔を見合わせ、小さく頷いて後を追う。
村の奥へ進む。
人通りはさらに少なくなり、家と家の間隔も広がっていく。少し外れた場所に、ひとつの家があった。
木造の小さな家だった。
屋根はあるが、ところどころ傷んでいる。扉は閉まっているが、使われていないのが一目で分かる。周囲には草が伸び、手入れされていない様子だった。
「ここだ」
老人が言う。
「前に住んでたやつは、もう戻らん。置いていったままだ」
シャーロットは家を見上げる。
(……ちょうどいいかも)
広すぎず、狭すぎない。手入れは必要だが、壊れているわけではない。
「使っていいんですか?」
「構わん。ただし好きに直せ。直さんと住めんぞ」
「はい」
シャーロットは素直に頷く。
「ありがとうございます」
老人は軽く手を振る。
「礼はいらん。どうせ空いとる」
それだけ言って、元の場所へ戻っていった。
シャーロットはしばらくその場に立ったまま、家を見ていた。
「……どう?」
小さく聞く。
クロエは周囲を一度見渡してから答える。
「問題ありません」
「住めそう?」
「最低限は」
「そっか」
シャーロットは少しだけ笑う。
扉に手をかける。少し固かったが、押すとゆっくりと開いた。中は暗く、空気が少しこもっている。長い間使われていなかったのだろう。
一歩、中に入る。
床はきしむが抜けてはいない。窓はあるが汚れていて光が入りにくい。簡単な家具がいくつか残っている。机、椅子、棚。それだけだ。
「……掃除すればいけそう」
ぽつりと呟く。
クロエも中に入り、静かに周囲を見る。
「水場は外です。火は確保する必要があります」
「うん」
「薬を作るなら、整理も必要です」
「それもやる」
シャーロットは部屋の中央に立ち、小さく息を吐く。
(ここで、やるんだ)
そう思うと、不思議と落ち着いた。
王都のような賑やかさはない。設備も整っていない。でも、それでいいと思った。
全部揃っていなくても、できることはある。
「……よし」
小さく言う。
「まずは掃除からだね」
クロエは少しだけ間を置いてから頷いた。
「妥当です」
シャーロットは窓に近づき、軽く拭く。少しずつ光が入ってくる。部屋の中が見えるようになる。
埃は多いが、どうにかなる範囲だ。
「ここ、作業台にできそう」
机を軽く叩く。
「こっちは材料置き場かな」
棚を見る。
自然と頭の中で配置が決まっていく。
薬を作る場所。
材料を置く場所。
渡す場所。
まだ何もないのに、形だけは見えてくる。
クロエがそれを見て、小さく言う。
「ずいぶんと具体的です」
「そう?」
「はい」
シャーロットは少しだけ考えてから答える。
「なんとなく、かな」
それ以上でも、それ以下でもない。
クロエは少しだけ目を細める。
「それが一番厄介です」
「え?」
「いえ」
それ以上は言わなかった。
シャーロットは気にせず、もう一度部屋を見渡す。
何もない場所。
でも、これから作れる場所。
それで十分だった。
外に出る。
空は少しだけ赤くなり始めていた。日が落ちる前の静かな時間だ。村の音も少しずつ落ち着いてきている。
シャーロットはその景色を見ながら、小さく息を吐く。
「……ここにしよ」
はっきりとした言葉だった。
クロエはその後ろで静かに答える。
「了解しました」
それだけだった。
契約もない。
条件もない。
ただ、そこにいると決めただけ。
シャーロットはもう一度家を振り返る。
古くて、小さくて、何もない場所。
でも――
ここから始まる。
そう思えた。




