■第2章 第5節:静かな別れ
それからどれくらい時間が経ったのか、正確には分からなかった。森の中は相変わらず静かで、日の傾きだけがゆっくりと進んでいる。光の角度が変わり、木々の影が長く伸びていく。
シャーロットは何度か同じ作業を繰り返していた。周囲から拾った素材を混ぜ、即席のポーションを作り、それを黒竜の傷へと使う。やり方は相変わらず曖昧で、理屈も分からない。それでも、結果は確実に積み重なっていた。
黒竜の呼吸は、もう安定している。最初に見たときのような危うさは消え、ゆっくりとだが確実に生きていると分かる状態まで戻っていた。傷も完全ではないが、致命的なものではなくなっている。
「……うん、大丈夫そう」
小さく呟く。
完全に治ったわけではない。それでも、ここまで来れば、すぐに命がどうこうなる状態ではない。あとは時間があれば回復していくはずだ。
シャーロットはその場にしゃがみ込んだまま、少しだけ力を抜く。思っていたよりも集中していたらしい。肩や腕に、じわりとした疲労が残っている。
(ちょっと、やりすぎたかも)
軽くそう思う。
それでも後悔はなかった。
黒竜の瞳が、静かにこちらを見ている。最初に比べれば、その視線の圧は少しだけ和らいでいた。それでも、普通の存在ではないことは変わらない。圧倒的な“格”の差は、今でもはっきりと感じられる。
シャーロットはその視線を受け止めながら、ゆっくりと立ち上がる。
「……これくらいかな」
誰に言うでもなく、そう言う。
もうできることはほとんどない。素材も尽きているし、これ以上は大きな変化は見込めない。今の状態なら、あとはこの黒竜自身の力でどうにかできるはずだ。
しばらく、そのまま立っていた。
何か言うべきかどうかを考えて、結局何も思いつかない。
「……じゃあ、行くね」
自然とその言葉が出た。
別れの言葉としては、あまりにも軽い。それでも、他にしっくりくる言葉はなかった。
黒竜は動かない。
ただ、その金の瞳がわずかに細められる。
それが、返事の代わりのように見えた。
シャーロットは小さく頷く。
「うん、大丈夫そうだし」
そう言って、一歩だけ後ろに下がる。距離を少しずつ取る。本来なら、近づくこと自体が危険な存在だ。今までが特別だっただけだ。
それでも、不思議と怖さはなかった。
背を向ける。
そのまま歩き出す。
振り返る理由はなかった。確認しなくても分かる。もう大丈夫だと、感覚で理解している。
森の中を進む。来たときと同じ道を戻るだけだ。足取りは少し重いが、不安はない。やるべきことはやったという感覚がある。
しばらく歩いたところで、ふと足が止まる。
(……そういえば)
ポーチに手を入れる。中身を確認する。ほとんど空に近い。素材もポーションも使い切っている。
「……まぁ、いっか」
小さく呟く。
どうにかなるだろうと思った。今までもそうだったし、これからもたぶん同じだ。
再び歩き出す。
森の空気は、来たときよりも少しだけ軽く感じた。張り詰めていたものが、どこか緩んでいるような感覚がある。
(……終わったんだ)
そう思う。
特別なことをしたつもりはない。ただ、目の前にあったものに手を伸ばしただけだ。それだけで、何かが少し変わった気がした。
そのまま森を抜け、開けた場所へと出る。遠くに空が広がり、光が差し込んでいる。
そのとき――
「……待て」
背後から、声がした。
低く、重い声だった。
シャーロットの足が止まる。
ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、先ほどまで横たわっていた黒竜ではなかった。
人の姿だった。
黒い髪、わずかに光を帯びた瞳。年齢はシャーロットと同じくらいに見える。だが、その存在感はまったく違う。
圧は消えていない。
むしろ、形を変えてそこにある。
シャーロットはその姿を見て、少しだけ首を傾げた。
「……えっと」
言葉を探す。
何を言えばいいのか分からない。
目の前の存在は、明らかにさっきの黒竜だ。それは感覚で分かる。説明はできないが、間違いない。
少女は静かにこちらを見ている。
「なぜだ」
短く、そう言った。
問いの意味はすぐに分かった。
なぜ助けたのか。
それを聞いている。
シャーロットは少しだけ考える。
難しいことを聞かれているわけではない。でも、答えをきれいに言葉にするのは少しだけ難しい。
「……見えてたから、かな」
結局、そう答えた。
それ以上でも、それ以下でもない。
少女はしばらく黙ったまま、その言葉を見つめるように受け止めていた。
やがて、わずかに目を細める。
「……そうか」
それだけ言う。
それ以上は何も聞かない。
シャーロットも、それ以上は何も言わなかった。
少しだけ沈黙が続く。
風が吹き、木々が揺れる。
シャーロットはそのまま小さく頷いた。
「じゃあ、今度こそ行くね」
軽く手を振る。
特別な別れではない。ただの区切りだ。
少女は何も言わない。ただ、その場に立ったまま見ている。
シャーロットは背を向けて歩き出す。
今度は、止められなかった。
そのまま森を抜けていく。
振り返ることはなかった。
ただ――
ほんの少しだけ。
背中に視線を感じていた。




