選ばれた俺は、逃げられない
「……は?」
形式上は、息子だ。
その言葉だけが、頭の中で引っかかっている。
(意味わかんねぇだろ)
「冗談、だよな」
「残念ながらな」
ほんのわずかに、口元が動いた。
——笑ったのか?
「……笑えねぇって」
「安心しろ。俺も笑う気はない」
「いや今笑っただろ」
「気のせいだ」
(絶対わざとだろ)
「……なんで俺なんだよ」
「お前しか残っていないからだ」
それで終わりだった。
家族は消えた。親父は捕まった。
——俺だけが残った。
「……親父は」
「生きている」
即答。
それだけで、少しだけ息が戻る。
「会えるのか」
「条件次第だ」
(またそれか)
外に連れ出される。
夜の空気が、やけに冷たい。
車に押し込まれる。
「シートベルト」
「……は?」
「つけろ。死ぬぞ」
「急に現実的だな」
「安心しろ」
一拍。
「今日は事故る予定はない」
「“予定”ってなんだよ」
「昨日は予定外だった」
「降りるわ!!」
「却下だ」
ドアロックの音がやけに重い。
エンジンがかかる。
車が走り出す。
街の光が流れていく。
見慣れているはずの景色が、全部遠くなる。
(……ほんとに、終わったんだな)
「名前」
「ん?」
「お前の」
「三内光」
「知ってる」
「じゃあ聞くなよ」
「確認だ。間違っていたら困る」
「何がだよ」
「色々だ」
(絶対適当だろ)
少しだけ、空気が緩む。
ほんの一瞬だけど。
車が止まる。
降ろされる。
目の前にあるのは、無機質な建物。
窓が少ない。
人の気配も、ない。
「入れ」
中に入る。
白い。
どこまでも同じ空間。
音が吸われる。
「ここが拠点だ」
「……刑務所じゃなくて?」
「希望があれば考える」
「いらねぇよ」
ほんの少しの間。
(やっぱこいつ、わざとだ)
「ついてこい」
長い廊下を歩く。
足音だけが響く。
同じ景色が続く。
方向感覚が消える。
「まずは——」
陸が立ち止まる。
振り返る。
ほんの少しだけ、間を置く。
「身体を動かす」
「……は?」
次の瞬間。
視界がぶれた。
「っ——!?」
何が起きたか分からないまま、床に叩きつけられる。
息が抜ける。
肺が潰れる。
「遅い」
見下ろされる。
「反応がな」
「いや今のは——」
言い終わる前に腕を引かれる。
無理やり立たされる。
足がもつれる。
「もう一回」
「は!?ちょ——」
今度は、見えた。
肩の動き。
重心。
振り下ろされる前の“わずかなズレ”。
(来る——!)
反射で身体が動く。
半歩、ズレる。
風が頬を切る。
次の瞬間。
後ろで、重い音。
振り返る。
壁が、へこんでいる。
(……は?)
「……ほう」
初めて、興味を持ったような声。
「壊れないな」
「褒め方おかしいだろ」
「褒めている。基準は高いがな」
「知らねぇよ!」
息が荒くなる。
足が震える。
でも、目は逸らさない。
逸らしたら終わる気がした。
「なんでこんなこと——」
「決まっている」
「必要だからだ」
また、それだ。
「お前は選ばれている」
動きが止まる。
「は?」
「だから——」
距離が一気に詰まる。
「それに見合うか、確かめている」
意味は分からない。
でも、一つだけ分かる。
(逃げ場がない)
「……親父に、会えるんだな」
それだけを聞く。
陸は、わずかに目を細めた。
「結果次第だ」
(結果)
また、それか。
でも——
息を吐く。
「——やるしかねぇだろ」
言った瞬間、腕を掴まれる。
今度は、投げられる。
床が近づく。
衝撃。
一瞬、意識が飛びかける。
「立て」
短い声。
命令。
身体が勝手に動く。
立つ。
ふらつく。
それでも立つ。
「いい目だ」
ぼそっと、落ちる声。
(……は?)
「嫌いじゃない」
聞こえるか聞こえないかの声。
「……それ、今言う?」
「評価は早い方がいい」
「タイミングおかしいだろ」
「慣れろ」
「無理だろ!」
また来る。
今度は、読めた。
避ける。
完全じゃない。
当たらない
版)
「……はぁ、はぁ……」
息がまだ乱れている。
床に手をついたまま、ゆっくりと顔を上げる。
陸は、息一つ乱していない。
まるで最初から何もしていないみたいに、そこに立っていた。
「悪くない」
短い声。
感情というより、結果の確認。
「動きはまだ粗い。だが——」
一拍。
「飲み込みは早い」
(またそれか)
でも、不思議と嫌な気はしない。
「お前はここに“選ばれている”」
その言葉は、もう前ほど刺さらない。
ただ、前提としてそこにあるだけだった。
「選ばれたってのは、結局なんなんだよ」
「考える必要はない」
即答。
「事実として扱え」
(事実、ね)
理解じゃなくて、処理。
そういうものらしい。
「じゃあ俺はこれから何をすればいい」
「動けるようになれ」
それだけだった。
シンプルすぎて、逆に納得するしかない。
(まぁ、そういう場所か)
「親父は」
気づけば、聞いていた。
陸は一瞬だけ間を置く。
「生きている」
即答。
「会えるかどうかは、お前次第だ」
それ以上は何もない。
でも、それで十分だった。
今はまだ。
息を吐く。
「……わかった」
短く答える。
納得したわけじゃない。
ただ、止まる理由がなかった。
「ついてこい」
陸が背を向ける。
廊下の奥へ歩き出す。
白い空間。
同じ景色。
どこまで行っても変わらない道。
(選ばれた、か)
まだ意味は分からない。
でも、それは“考えるものじゃない”らしい。
なら今は、それでいい。
「……行くしかねぇだろ」
小さく呟いて、足を踏み出す。
その一歩が、やけに重くて。
やけに現実的だった。
白い廊下を歩きながら。
足音だけが、やけに響く。
一歩、止まる。
(……親父)
ふと、頭に浮かぶ。
怖かった。
基本的に、無表情で。
声も低くて。
怒ったら、普通に空気が変わるタイプだった。
でも——
変なところで、抜けてた。
朝。
味噌汁を出しながら、真顔で言う。
「これ、今日のやつな」
前の日の残りだった。
(いや昨日のだろ)
でも本人は気づいてない顔してる。
たまに、急に変な冗談を言う。
「お前らが騒ぐから、家がうるさい」
とか言って、
自分が一番うるさい日もあった。
なのに、締めるところは締める。
誰かが喧嘩した時だけは、空気が一瞬で止まる。
その瞬間だけは、別人みたいだった。
(怖ぇのにさ)
でも不思議と、嫌じゃなかった。
むしろ——安心してた。
家に帰れば、あの人がいるっていうだけで。
(……なんだよそれ)
胸の奥が、少しだけ重くなる。
「……あの人」
声が、自然に出る。
「なんだかんだで、好きだったんだろうな」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。
でも否定はできなかった。
あの無愛想で、変で、強面で。
たまに子供みたいにズレてる親父。
(会えるよな)
今度は、はっきりとそう思った。
返事はない。
「光。どうしたんだ」
「… 今行く!」
ただ白い廊下が、どこまでも続いていた。




