第30話 星空の約束①
その日の夜の模擬戦は、マジでボロボロだった。
九条さんの手のひらの温もりが、まだ指先に残っている気がして、頭が完全にショートしていたのだ。
集中力? 何それ? 状態の思考停止。
そんな状態の俺に容赦なく立ちはだかったのが世野ちゃんだった。
ここぞとばかりに鋭い反論を次々と繰り出され、俺は「あー」とか「うー」とか言いながら、ほぼ無抵抗のままサンドバッグ状態になっていた。
だが、そんな勝利も彼女にとっては満足できなかったのか、頬をぷくっと膨らませ、不満そうにしている。
……ま、当然か。
「ごめんて……夕飯食いすぎて、なんかだるくなってさ。眠気もすごくて……」
「だから、言ったじゃないですか……。ご飯何杯お代わりしたと思ってるんですか?」
「三杯? いや四杯だっけ? でも、信州牛のすき焼きなんて出されたら、白米止まらなくなるだろ……」
「……明日はちゃんとコンディション整えて下さいね。何の為の合宿なのか、ちゃんと踏まえた上で、節度ある行動をお願いします」
「う……了解」
一年生に本気で説教されてしまった。
そんな俺を横で見ていた九条さんは、クスクス笑っていた。
てか、何であなたはそんな普通でいられるの?
俺だけが意識しちゃってるみたいじゃん。
……いや、ほんとに俺だけが意識してるのかも。
部活を終えて、自室へ戻るため廊下を歩いていると、ちょうど角を曲がったところでデイブ先生とすれ違った。
両腕いっぱいに地ビールの瓶を抱え、まるで宝物でも手に入れたかのような幸せそうなその顔に、思わず苦笑してしまった。
一応、部活が終わるまでは酒を我慢してたんだな。
◆◆◆
気合を入れ直した翌日は完全に調子を取り戻し、世野ちゃんからの信頼も何とか回復できたようだった。
全国高校ディベート選手権、通称『ディベート甲子園』まで残り三ヶ月を切っている。
関東予選までは、あと二ヶ月。
俺がディベート部に入ってから、まだ九ヶ月しか経っていないが、その間に積み重ねた時間は濃密で、あっという間に過ぎていったな。
九条さんに告白したあの日、「一緒に日本一を目指しましょう」と言われた。
あれが本気だったのか、冗談半分だったのかは分からない。
だが今では、日本一という目標は、もはや遠い夢などではなく、俺の中で必ず叶えなければならない義務になっていた。
九条さんに話すべき時が来たと、俺は思った。
スマホを取り出し、LINEを開く。
『ここの別荘って、屋上とかあったりする?』
数秒もしないうちに既読がつき、返事が来た。
『あるけど、どうして?』
『星空が綺麗に見えるかなと思って』
『どうしたの? 出口君がそんなロマンチックなこと言うなんて笑』
『二人で見に行かない?』
『分かった。外で待ってて』
庭先に出ると、外付けの鉄階段が屋上へと続いている。
夜の軽井沢は春とはいえ、昼間の陽気が嘘のように冷え込んでいた。
俺は廃墟探索に出かけた時と同じ厚手の長袖を着込み、ポケットに手を突っ込んで待つ。
やがて、足音が近づく。
上着をしっかり着込み、手には毛布を抱えた九条さんが現れた。
「お待たせ。夏だったらみんなを誘うところなんだけど、まだ寒いから」
「うん、想像以上に冷えてるね……」
軽口を交わしながら階段を上る。
一段上るごとに、視界が開けていき、森を囲む静けさが深まっていく。
そして屋上へ出ると、そこには――
漆黒の空に、無数の星が瞬いていた。
吐く息が白く浮かぶほどの冷たい空気の中、頭上いっぱいに広がる星々は、手を伸ばせば掴めそうなほど鮮明で、ありきたりな表現ではあるが、宝石を散りばめたように輝いている。
「めっちゃ凄いな」
俺が思わず声を漏らすと、九条さんが小さく笑った。
「うん。空気は澄んでるし、東京みたいな街の明かりもない。ガスも靄もないから、本当に綺麗」
二人で毛布を肩にかけたまま、しばらく無言で空を仰ぐ。
耳に届くのは、遠くで鳴く鳥の声と、わずかな風の音だけ。
星々の光がゆっくりと瞬くその時間は、不思議と心が静まる。
「で? 何か話があるんでしょ?」
沈黙を破ったのは九条さんだった。
さすが、察しが早い。
「うん……。久しぶりに勝負しよう。俺が勝ったら――お付き合いが始まる、あの約束の」
一瞬だけ、九条さんの瞳が大きく揺れた。
だが次の瞬間には、いつもの冷静な表情に戻っていた。
「ほんとに久しぶりね。絶対勝てる自信が持てるまではやらないんじゃなかった?」
「ああ。だけど、もう絶対に勝つって決めたから」
「……その自信はどこから来るのかしら。論題は?」
「俺たちが決着をつけるのは、あれしかないじゃん」
「あれ?」
「俺たちの始まりの日のあれ。『恋愛において学歴や家柄は重要か』。立場もあの時と同じで」
「了解。じゃ、始めましょ」
修学旅行の夜、京都のホテルの外のベンチで交わした模擬戦。
月が静かに照らしていた、あの夜を思い出す。
そして今――この満天の星空の下、俺たちは再び向き合う。
夜空を見上げるたびに、きっとこれからも俺は、九条さんとのあの時の、そして今日の論戦を思い出すのだろう。




