第29話 合宿②
人生史上最高レベルのランチをありがたく頂いた後、俺は部屋へと戻る。
時計の針は13時半を指していた。
合宿の目的は当然、模擬戦を含めたいつもの部活の延長だ。
だが、今日は移動日ということもあり、午後は各々がゆっくり過ごし、夕飯と風呂を終える20時頃から軽く活動するだけのスケジュールになっている。
二泊三日のスケジュールで、一番自由に動けるのは今しかない。
であれば――。
俺は持ってきた荷物を漁り、小さなリュックを取り出す。
中にはあらかじめLEDヘッドライトと予備の懐中電灯、厚手の手袋、簡易救急セットやペットボトルなどを詰め込んできた。
いわゆる廃墟探索一式だ。
そして肩に引っ掛けると、部屋の外へと足を向ける。
「あ、出口君。どこか行くの?」
階段を昇ってきた九条さんとばったり出くわす。
「ああ、ちょっと近くの廃病院まで」
「ハイビョウイン?」
「廃墟になった病院。せっかく近くまで来たから探索しようかと思って」
「え? 何の為に?」
「いや、俺、廃墟巡りが趣味だからさ……。なんつーか、冒険感とかスリルを味わう感じ。朽ち果てた建物にロマンを感じるというか」
「へぇ~、確かに非日常感は味わえるかもね。でも――」
そう言うと九条さんは、心配そうな表情を浮かべて、続ける。
「出口君、方向音痴だよね? 戻ってこれるの?」
「ぐっ……確かに」
「スマホのナビがあっても、目的地に辿り着けなかったりするじゃない」
「……」
返す言葉もない。
「合宿初日に迷子になって、捜索隊を出動させるようなことは止めて欲しいんだけど」
「何でもう迷子になること確定になってんの……大丈夫だって、多分」
と言いながら、俺も少しだけ不安になってきた。
「じゃ、九条さんも一緒に来る? ラーメン屋に続いて、新たな世界を知れるかもよ?」
「……怖いのは苦手なんだけど。でも、地元の方たちに迷惑を掛けるわけにはいかないし」
九条さんは少し考える素振りを見せたが、やがて決断したようにうなずく。
「そうね、お目付け役として同行する。着替えた方がいい?」
九条さんの服装はワンピースにカーディガンを羽織っただけの軽装。
動きやすそうではあるが、廃墟探索には不向きだろう。
「うん、長袖、長ズボンがあれば。できれば厚手のやつ。あと靴もトレッキングシューズみたいな丈夫なのがもしあれば」
「了解。着替えてくるから外で待ってて」
さすが自分の別荘だ。
服や靴、必要な道具までちゃんと常備されているんだな。
俺は軽井沢のひんやりとした空気を吸い込み、窓の外に広がる新緑の森を眺めながら、九条さんが来るのを待った。
◆◆◆
九条さんに導かれ、山道を抜け、黒々とした木々が四方から迫る森へ足を踏み入れる。
湿った土の匂いと、時折聞こえる鳥の声。薄く漂う霧が視界をぼやかし、空気はひんやりとしていた。
苔むした石段を一段ずつ上ると、視界の先に古びた建物の影が現れる。
目的の廃病院だ。
白かったであろう外壁はひび割れ、苔やツタに覆われて緑色に染まっている。
錆びついた鉄柵は歪み、ところどころ途切れていて、その無防備さが逆に不気味さを増していた。
窓はひび割れや汚れでぼんやりと黒く曇り、外からは建物内部の様子はほとんど見えない。
「おお……めっちゃいい感じ」
興奮を抑えきれず、俺はポケットからスマホを取り出してシャッターを切る。
「ほんとに入るの……? 外から見るだけじゃダメ? ていうか、こんな場所に病院があるなんて変じゃない?」
九条さんは不安そうに眉を寄せ、声を潜める。
「ああ、昔は療養施設や精神病院って静かな環境が好まれてたんだよ。自然に囲まれることで、患者さんの心を落ち着ける効果もあったらしい」
「せ、精神病院……?」
「心霊スポットってわけじゃないから大丈夫だけど……どうする? ここで待ってる?」
問いかけると、九条さんは一瞬ためらう。
そして、視線を周囲に走らせた後、小さく首を振った。
「……ここで一人も怖い。ついていく」
どうやら覚悟を決めたらしい。
俺はリュックを開け、LEDヘッドライトを取り出すと額に装着する。
胸の鼓動が早まるのを感じながら、九条さんに軽くうなずく。
――いざ、内部へ突入だ。
◆◆◆
建物の入り口は、錆びついた鉄扉が半ば外れかけており、風に揺れるたびに軋んだ音を立てていた。
湿ったコンクリートの匂いと、長い時間が積み重なった空気の重さが肌を圧する。
俺はヘッドライトのスイッチを押し、細い光の筋を闇の中へと伸ばした。
「ねぇ、本当に大丈夫なんだよね?」
九条さんの声は、どこか怯えが混ざって、わずかに震えていた。
「大丈夫、大丈夫」
窓のない廊下は、昼間だというのに真っ暗だ。
床にはガラスの破片や錆びた金属片が散らばり、ライトに照らされて冷たく反射する。
「病室はこっちかな」
歩みを進めると、壁には古びた掲示物が貼られたままだった。
「手洗いを忘れずに」「面会時間は――」そんな文言が、ここでかつて人が暮らしていたことを無言で語る。
扉の奥には、壊れたベッドや倒れた棚、カーテンの切れ端が無造作に散乱していた。
その時――
「きゃっ!」
九条さんが何かに躓き、よろける。
反射的に体が動いた。
普段の俺では考えられない速さで腕を伸ばし、彼女の体を支えていた。
「足元、危ないから気を付けて」
「……うん」
そう言うと、九条さんは俺の隣にぴったりと寄り添ってくる。
お互いの手の甲が何度も擦れ合うほどの近さ。
無意識だった。
いや、理性より先に本能が反応していたのか?
気付けば俺は、九条さんの手を握っていた。
九条さんも驚く素振りを見せず、むしろしっかりと握り返してくる。
それを意識した瞬間、廃墟探索という目的は完全に吹き飛んだ。
ヘッドライトの光が前方を照らしているのに、視界はぼやけ、心臓がバックン、バックンとマジで喉の奥から飛び出しそうなほど弾んでいる。
その後は無言のまま、しばらく建物内を歩き回り、ゆっくりと外へ出た。
外に出ても言葉はなかった。
森の中を戻る道すがら、春の軽井沢らしい澄んだ空気と鳥のさえずりが遠くに響く。
だが俺は、その景色すらほとんど目に入っていなかった。
九条さんの顔も、まともに見ることが出来ない。
夢の中をふわふわ歩いているような、そんな感覚が続いていた。
そして、別荘が見えてきた時――ようやく気付く。
俺たちはまだ、手を繋いだままだった。
「あ」
顔を見合わせる。
九条さんは少しだけ驚いたような、でもどこか楽しそうな顔で。
「ヘッドライト、点けっぱなしだよ?」
耳まで赤く染まった頬で、彼女はくすくす笑った。
「……消すの忘れてた」
俺は右手でヘッドライトのスイッチを押す。
左手は――まだ九条さんの手をしっかりと握ったままだ。
――ん?
いいのか、このままで?
そう思いながらも、俺は何も言わずに歩き出した。
九条さんも離す素振りは見せず、握る力も変わらない。
ヤバい、今更だけど手汗とか大丈夫か?
門の前にたどり着いたところで、ようやくどちらからともなく手を放した。
今日の出来事を、俺は一生忘れることはないだろう。
ただひとつ確かなのは――廃墟巡りはやっぱり一人で行く方がいい。
……目的が、完全に変わっちゃうから。




