第3話 論理思考とは何か
論理思考とは何か。
俺は今、論理思考の定義と役割、感情や直感との違いについて書かれた本を読んでいる。
昨日の帰り際、九条さんから「入部するなら一読しておくように」と手渡された一冊だ。
明後日までに読み終わるように、と期限まで切られている。
短いよ、期限……。
でも、やってやるぜ。
窓の外はまだ夏の名残を引きずった青空だが、吹き込む風にはかすかな秋の匂いが混じっている。
教室の中はまだ生徒の数も少なく、遠くで部活の朝練帰りらしい足音が響くだけ。
そんな中で俺は机に肘をつき、黙々と活字を追っていたのだ。
「おい~っす、朝早くから何読んでるんだ?」
隣の席の上戸が、眠そうな声であくび混じりに話しかけてきた。
髪は寝ぐせであちこち跳ねているが気にする素振りも見せない。
「おっす。これは『超論理思考トレーニング入門編』っていう、自己啓発本みたいなもんだな」
「ふ~ん、で、どうだったんだ?」
何が、とは聞くまでもない。
昨日の告白の件に決まっている。
「条件付きでOKだったわ」
俺が玉砕すると踏んでいたに違いない。
少しだけ自慢げに教えてやった。
「お? ってことは――」
……ん?
全然驚いてないのか?
てか、羨ましがってる感じもしない。
「ディベート部に勧誘されたな?」
「な、なぜ分かる!?」
上戸は椅子の背もたれに寄りかかりながら、わざとらしく肩をすくめた。
「いや、昨日言っただろ? 『氷の玲香様』に振られた奴らはメンタルまで破壊されるって」
「ああ、確かに。で、それがどうした?」
「お前みたいに諦めきれず、ディベート部で腕を磨いて再アタックしようとした奴らが何人かいてな……」
その思わせぶりな口ぶりに、俺はゴクリと生唾を呑み込んだ。
教室のドアの向こうからは、登校してくる生徒たちの笑い声が徐々に近づいてくる。
「で、入部したら、連日ディベートの模擬戦とやらでボコボコにやられて、メンタルブレイクして退場していく羽目になる……」
「……マジかよ」
「お前も気をつけろよ……B組の竹田は、1ヶ月くらい粘って廃人となった」
◆◆◆
放課後。
教室で待機するよう九条さんに命じられた俺は、誰もいない教室にひとりポツンと取り残されている。
窓から差し込む西日が机の上をオレンジ色に染め、外や廊下からは昨日のデジャブかのように部活動の声が遠くに響いてくるだけだ。
……放置プレイ?
それはそれで少し興奮するが——いやいや、アホなことを考えている場合じゃない。
今のうちに『超論理思考トレーニング入門編』を読み進めておかないと。
ガラガラガラ——。
廊下の向こうから足音が軽やかに近づき、扉が開いた。
黒髪を揺らし、凛とした表情で九条さんが教室へと足を踏み入れる。
流し見ただけで視線を奪うその美貌に、まるで空気の温度まで変わったような錯覚を覚える。
「お待たせ。では、さっそく部活を始めましょうか」
「え? ここで?」
「うん。部室として使ってた空き部屋は没収されちゃったから」
「没収!?」
「他の部員がいなくなっちゃったからね。今は倉庫として使われてるの。悔しい……」
そう言うと、九条さんは本気で悔しそうに唇をかんだ。
てか、その仕草すら絵になる。
「秋から始まる大会で結果を残せないと、最悪、廃部もありえるわ」
「え? それは困る」
「でしょ? だから出口君には本気で頑張ってもらわないと」
「……了解。何かめっちゃやる気出てきたわ」
廃部なんてとんでもねぇ……。
俺はここで論理的思考力を磨いて、絶対に九条さんと付き合うんだ!
そして、あんなことやこんなことを——と、妄想を膨らませていたそのとき、澄んだ声が耳元にすっと届いた。
「ではさっそくだけど、模擬戦をやってみない? 出口君はとりあえず場数を踏まないと」
模擬戦……!
その単語が耳に届いた瞬間、俺の体がビクンと小さく跳ねた。
出たな……これが噂の——。
B組の竹田君だっけ?
模擬戦を続けてメンタルブレイクしちゃったのは。
だが、俺のメンタルはそんなヤワじゃない。
心の奥で拳を握る。
「OK! 今日の論題は?」
「そうね……では、ありきたりだけど『高校の制服は自由化すべきである』にしましょうか」
「了解!」
——そして始まった。
……
…………
………………
この後、俺は無茶苦茶にされた。
言葉を詰まらせる暇もなく、次々と論を崩され、反論の芽を根こそぎ摘まれる。
気がつけば机に手をついて、俺には生きる価値なんてないと本気で思い知らされた。
てか、昨日のあれは何だったの……?
全然本気じゃなかったってこと……??
マジで泣きそうだ。
こんなのを毎日やったら、そりゃメンタルも死ぬわ……。
「本、ちゃんと読んで理解してね。それ、あくまで入門編だから。大会までには応用編まで叩き込んでもらわないと」
「お、おう……」
「ちゃんと脳の奥まで落とし込んで、私の隣で一緒に戦ってね」
にっこりと微笑む九条さん。
その笑顔は、模擬戦でズタボロにされた心を一瞬で立て直すほどの破壊力があった。
てか、隣に立つ……!
怪獣8号っぽいな。
てことは九条さんが亜白隊長で俺は日比野カフカか。
「じゃ、今日はおしまい。お疲れ様!」
軽やかにそう告げると、彼女は振り返りもせず、颯爽と教室を後にした。
揺れる黒髪と何か分からない良い匂いだけが、そこに残る。
……あ、これって、そのうち一緒に帰ることも出来るんじゃないか?
いや、出来るっしょ! 絶対に!!
そして、今まで都市伝説でしかなかった夢の放課後デートへ!!!
よし——まずは『九条さんと一緒に下校する』を目標にしよう。




