第十話 宣戦布告
雪から変わった冷たい雨が、理学棟の窓を叩いていた。
研究室には、数日前から居座っている重苦しい静寂が淀んでいる。柳はデスクで古い資料に目を落としていたが、その意識は常に、颯汰の鎖骨に刻んだ「護符」の先――青木家の動向に向けられていた。
不意に、ノックの音が響いた。
「こんにちは、先生」
現れたのは、白川葉だった。雨に濡れた形跡もなく、いつものように穏やかで、あどけない少年の笑みを浮かべている。だがその無垢な皮の下で、どす黒い「ケシの毒」と、冷徹な「鏡面の金」が鎧のように渦巻いていた。
「……白川くん。今日は一段と顔色がよろしい。何か、良いことでもありましたか?」
柳は努めて穏やかな「学者」の仮面を被り迎え入れた。彼は柳の問いには答えず、親しげな様子でいつもの椅子に座ると、膝の上のスケッチブックを開いた。
「先生、また夢を見たんです。……あの『一本の巨木』の夢。でも、今度は続きがありました」
差し出されたページには、以前よりも緻密に、そして禍々しく描かれた巨木の姿があった。太い幹には無数の銀色の線が絡みつき、さらに周囲の森からエネルギーを吸い取っているように見えた。
「……巨木が、周囲の生命を吸い取っているのですか?」
「はい、この木の根元、『眠っている人』へエネルギーを注いでいるんです。早く目を覚ますように。……タグのアプリをもっと土地と同期させれば、この夢ははっきり見えるようになるって、金城さんが言ってました」
黒銀のタグを見せつけながら、そして臆することなくさらりと、柳が護符を通じて得た情報を肯定するように「金城」の名を出した。柳の背筋に、氷のような戦慄が走る。葉は、柳がすべてを知っていることを前提として話している。もはや「知らない振り」をしているのは、自分の方なのかもしれない。
「……それは、随分と残酷な夢ですね」
「残酷……ですか? 世界を正しい形に戻すためには、力が必要なんです。……先生、これを見てください」
彼の視線が射抜くように見つめている。そしてゆっくりとページをめくった。まるでこちらの反応を確かめるように。
そこには一人の女性が血を流して倒れている姿が描かれていた。その傍らには、忘れるはずもない王の姿。
「僕、この女の人の夢も見るんです。この人は昔、戦の最中に……幼い僕を庇って死んだ、僕の姉さんなんです」
(な……に……?)
柳の手がピタリと止まる。葉は感情を押し殺した平坦な声で、しかし内にはドロドロとした怨嗟を孕ませて言葉を続けた。
「あの男――精霊王は、死んだ姉さんを勝手に『精霊』なんて化け物に変えた。そして千年桜として、何千年も結界を守る道具にしたんだ。自分の都合で、人間の命も魂も奪っておいて……救い主の顔をしてね」
「白川くん……君は……」
「僕は覚えています。姉さんの温もりも、あの男に引き裂かれた絶望も。……だから僕は、精霊王が許せない」
葉の瞳から、無垢な少年の光が完全に消えた。代わりに宿ったのは、燃え盛る激しい憎悪と、不気味なほどの冷酷さだった。
「僕の目的は一つ。あの男を歪んだ形で引きずり起こし、その力でこの理不尽な世界をすべて壊すこと」
柳はゆっくりと眼鏡を外し、デスクに置いた。目の前の少年は、あまりにも強烈な怨念に捉われている。だが、その瞳の奥にある「歪み」の異質さに、柳の理知が警鐘を鳴らしていた。
「……君の怒りはあまりに深く、そして……あまりに『作られすぎている』。一体誰に、その記憶を植え付けられたのですか?」
葉は柳の問いを意に介さず、冷たくあざ笑うだけだった。彼にとって、自身の内にある記憶の出処などどうでもいいのだ。ただ、胸を焦がす殺意と破壊衝動だけがすべてだった。
「先生、現実を見てください。僕たちの『レイヴン』のタグ……近いうちに、世界中で正式に発売されることが決まりました」
「なんだって!?」
とっさに柳の口から、冷静さを失った言葉が漏れた。
ふっと葉の口角があがる。
「このキャンパスだけじゃない。世界中の人間がアプリを起動し、タグを手にする。そうなれば、地球上のあらゆる植物と精霊から霊素が吸い上げられ、僕のもとへ集まる……世界全体の枯絶が始まるんです」
世界規模での霊素の奪取。それが実行されれば、生態系は崩壊し、この星そのものが死の惑星と化す。
「そのためには、まずこの理学棟の地下にある『根の霊素』をもらいます。……先生、あなたは王の守護者だった。なら、あの王がどれほど残酷で身勝手な存在か、本当は知っているはずでしょう? 僕の邪魔をする理由なんて、あなたにはないはずです」
「……お断りします。復讐のために世界を巻き込み、滅ぼすなど、決して許されることではありません」
柳の強い拒絶に、葉は立ち上がり、短く冷たく笑った。
「断られても関係ありませんよ。もうすぐ、すべてが白く塗り替えられる……」
それは、世界を滅ぼすための明確な宣戦布告だった。
葉はスケッチブックを閉じると、一度も振り返ることなく研究室を後にした。
静まり返った部屋の中で、柳は一人、激しい眩暈に襲われていた。
姉を奪われた弟の復讐。しかしその裏には、少年を狂気へ躍らせる「黒幕」の存在が透けて見える。そして間もなく世界へと放たれる、霊素を喰らう悪魔のタグ。
(世界中の霊素が奪われる。時間が……なさすぎる……!)
柳は窓際の瀕死の雪幻桃に触れた。指先に伝わるわずかな震えは、枯れかけた雪幻桃の葉なのか。それとも――震えているのは、自分自身なのだろうか。
三月の雨は、世界の終焉を告げるかのように、いつの間にか激しい嵐へと変わっていた。




