第九話 盟主様
名残り雪がキャンパスを染めはじめると、学生たちはどこか浮き足立った空気に包まれていた。
柳の言葉通り、颯汰は自分を取り戻すように、研究室で新しい雪幻桃の鉢に献身的な世話を続けていた。その指先はまだ微かに震えていたが、瞳にはかつての情熱が戻りつつある。
「教授……俺、これから白川くんの家へ行ってきます。タグ、失くしちゃったこと、ちゃんと謝っておきたくて」
「……分かりました。気をつけて行ってきてくださいね」
研究室を出ていく後ろ姿を見送ると柳は静かに扉の鍵を閉め、眼鏡を外した。
部屋の中央にあるデスクの椅子へと座り、両の手のひらを机へとかざした。黄金の波紋がデスクから床、そして理学棟の根へと広がり、遠く離れていく颯汰の鼓動との同調が始まった。
(……さあ、聞かせてください。君たちがタグに仕込んだ『ケシの毒』で、何をしようとしているのか)
鎖骨の裏側に刻んだ「金柳の護符」が、熱を持って起動する。柳から授けられた浄化の力と、颯汰自身に流れる僅かな精霊の血によって、今の彼はあらゆる毒を跳ね返す強さを得ていた。
やがて、遠く離れた青木家でインターホンの音が鳴り、玄関の開く音が聞こえた。
『あら、桃木さん。いらっしゃい』
耳に届いたのは、叔母と思われる青木美津子の穏やかな声。だが、柳の聴覚は護符を通し、声の裏に潜む、人とケシの精霊の血が混じり合った独特の「気配」を逃さなかった。かつての教え子、朝霧結奈で間違いない。
颯汰が家に上がり、美津子が茶を淹れに席を外したその隙。護符が鋭く冷たいノイズを拾い上げ、柳の背筋がゾクりと震えた。
『……金城様。申し訳ありません、あの男に持たせたタグは、柳に剥ぎ取られてしまいました』
結奈の声には、先ほどまでの慈愛など微塵もない。震えるような畏怖と忠誠。そして、それに応える傲岸不遜な声。
『……構わん。タグはただの釣り餌だ。お前は引き続き「叔母」を演じていろ。理学棟の根がすべて白く染まれば、あの老いぼれも終わりだ』
金城光一——コーイチは、まだ年若い精霊だ。なぜそれほどまでにこの世界を憎み、精霊界を飛び出したのだろう。フウの言う通り、金の属性を持つ精霊は、自然の理から外れた存在として忌み嫌われる風習がかつてはあった。だが、それはもう遠い過去の話のはずだ。
柳は拳を握りしめるが、衝撃はそれだけでは終わらなかった。
『……ああ。それと、盟主様のご機嫌はどうだ?』
盟主様。コーイチがそう呼んだ直後、護符を通じて、奥の部屋から歩いてくる「誰か」の足音が聞こえた。護符から伝わるその音は、風が通り過ぎる音に似ていた。
『――金城さん。桃木さんが来たよ。僕、会いに行ってもいいかな?』
『盟主様のお好きなように……』
柳は、息をすることさえ忘れた。その声は、あまりにも純粋で、透き通った——白川葉のものだった。
(あの子が……盟主様……?)
柳の脳裏を、これまでの光景が閃光のように駆け巡る。
夢を語る少年。柳や颯汰を慕っていた、あの孤独で澄んだ瞳。しかし、その白川葉こそが、すべての事象を統べる真の黒幕だったというのか。
コーイチのような傲慢な精霊が、そして結奈のような優秀な人間が、平伏して「盟主」と仰ぐ存在。彼らが望むのは、理学棟の根を白く染めること。すなわち、この地の生命の源をケシの毒で汚染し、領域の定義そのものを書き換えるということだ。もしそうなれば、植物だけでなく植物由来の精霊も、その恵みで生きる人間さえも、この地で息絶えてしまう。
しかし、分からない。白川葉の真の目的は何なのだ? そして一体、彼は何者なのか——。
「……これは、どういうことだ」
護符からは再び、リビングに戻った白川葉が、『桃木さん、来てくれたんだね!』と、あどけない喜びの声をかけるのが聞こえる。
柳は静かに接続を断った。
敵の正体は、最も近くで、最も無垢な顔をして笑っていたのだ。
(白川葉……。君が何者であろうと、この地を、そして我が教え子たちを毒の餌食にはさせません)
柳は眼鏡をかけ直し、窓の外に広がる曇り空を見上げた。
自分の中に眠る「古き精霊」としての真の力を、すべて解き放つ準備を始めた。




