第八話 黄金の護符
気を失った颯汰をソファーに横たえると、柳は静かに研究室の鍵を閉めた。
花の香りが霊力の残滓と混ざり合い、重苦しく淀んでいる。眼鏡を外し、デスクに置いた。もはや、精霊の眼力を隠すものは不要だ。
「……掃き出しなさい、理の不純物を」
床に手のひらを置くと、黄金の幾何学模様が床から壁一面へと広がった。研究室全体を結界で封鎖。この空間は今、人間界から切り離された柳の「聖域」となった。
次に自身の属性のひとつである「金」の探知能力を極限まで高め、颯汰の体内、そして精神の深淵に潜む「異物」を暴き出す。
「……見つけましたよ」
心臓の鼓動に合わせるよう、微かな、しかし粘り強い「白い光」が明滅していた。植物の生命活動を模倣しながら、その実体は命を持たない虚無の毒。
……間違いない。この白い光は、あの子――朝霧結奈のケシの花の毒。ケシは薬にも毒にもなる難しく儚い植物。そして彼女は、その精霊の血が混じった人間。母上は――。
柳は小さく頭を横に振り、思考を断ち切った。今は、目の前のことに集中すべきだ。
しかし浮かび上がった毒の所在先は、意外な場所だった。青木美津子――白川葉の叔母。柳は目を見開いた。朝霧くんではない……? 否、間違ってはいない。彼女が本物の青木美津子と入れ替わっているのだ。なぜ優秀な学生だった子が、美津子のふりをしているのか。
柳はさらに自身の意識を、理学棟の地下深く、数百年をかけて張り巡らされた植物たちの根のネットワークへとダイブさせた。
(……追いなさい。この偽りの香りと、タグから漏れる不浄な熱源の出どころへ)
意識は幾万の根を伝い、光速で街の影を走る。根のネットワークが、青木家の奥にある「空白の領域」に到達したその時、意識の前に「金の壁」が立ちはだかった。
(……!?)
それは柳の金とは異なる、冷徹で一点の歪みもない鏡面のような輝き。
『ジジイ、よくここまで辿り着いたな。褒めてやるよ』
ネットワークの向こう側から、聞き覚えのある滑らかな声が響いた。金城光一。同じ「金」の属性を持ちながら、精霊の誇りを捨て、人間界で悪事に加担する男。
『コーイチ……やはり君が裏で手を引いているのですか。精神を腐食させる毒まで作るとは……』
『うるさいぞ、ジジイ。説教するつもりか? あんた、少しは自分の立場を考えたほうがいいぞ』
『……何が目的ですか』
『さあな。俺は世界が面白くなれば、それで十分さ』
プツリと一方的に通信が途絶える。コーイチという防壁が現れた以上、力任せの探索は得策ではない。柳は現実世界へと意識を引き戻した。指先に残るのは、焼けるような冷たい金の熱。
結界を解くと、漂っていた花の香りが鼻についた。大きく息を吐く。
「……面倒なことになりましたね」
コーイチや結奈の目的は、聞かずとも予測がついている。御神木のクスノキの結界を弱らせた水の精霊が残した言葉。植物庁資研課からの調査報告。そしてタグを通じ、植物たちの情報やエネルギーを吸い取っている事実。
これらから導き出される答えは一つ——植物たちの情報から精霊樹の持つ『鍵』を探し出し、我らが王、精霊王を復活させること。そして、邪魔者の始末。
(……それだけではない。今、意識を失い病室に伏せる集音路くんや、彼に付き添うフウまでもが、彼らの侵食の脅威にさらされている……)
鍵を探すのは、そう容易くはない。それに——王の眠りや大切な教え子たちの平穏を守ること。
(君たちがこの世界を危険に晒す前に、私がすべての理を書き換えてあげましょう)
柳は眠る颯汰の額に手を置いた。
「……少しばかり手荒なことをしますが、許してくださいね」
手のひらに黄金の光を凝縮させ、体内に残る白い光であるケシの毒を浄化し、護符として金柳の意匠を固定した。これで彼らが颯汰に接触した際、会話を聞き取ることができる。
しばらくして、目を覚まし始めた颯汰が、おぼつかない足取りで温室へと向かった。そして唐突に、掠れた声を発した。
「……え」
その瞳には、耐え難い自己嫌悪が混濁している。視線の先には、無惨に煤け、枯れ枝のようになった雪幻桃の鉢があった。
「嘘だろ……。俺、何してたんだ? これ……俺がやったのか?」
鉢を抱きかかえ、泣き出した。
「教授……俺、俺は……! 渉先輩に、合わせる顔が……」
崩れ落ちる彼の肩に、柳は手を置いた。
「桃くん。顔を上げなさい」
「でも、俺……ここんとこずっと、雪幻桃のことなんてどうでもいいって……あんなに大事にしてたのに、枯れるまで気づかないなんて……!」
床に落ちる涙は、心が戻った証だった。柳は棚から瑞々しい緑を湛えた別の鉢を彼の前に差し出した。
「雪幻桃は、死んでなどいませんよ。君が一生懸命に手入れをしていた時期に、私はその生命力の一部を分けておいたのです。見てごらんなさい、この小さな命を」
柳が密かに増やしておいた雪幻桃の分株だった。
「それにもうひと鉢は、集音路くんのいる場所へ届けてあります。だから君が泣く必要はないのですよ」
「……教授……ありがとうございます……俺……渉先輩に……謝りに……行ってきます」
大事に鉢を抱きしめる彼に、柳は続けた。
「いま謝りに行くのは駄目です。君には、タグによる中毒と依存症状が出ています。必要なのは、自分自身を立て直すこと。『花守り』としての心を取り戻すことに専念しなさい」
颯汰は何度も頷いた。体内の護符のことを気づいている様子は見えない。
窓の外、夜の闇は深い。泣き止まない背中を撫でながら、柳は誓った。
(桃くん。君にこれ以上の泥は被らせません。……君が失った時間は、私が必ず取り戻してみせます)
脳裏には、金城光一と朝霧結奈の勝ち誇った顔が、不気味に浮かんでは消えていた。




