第七話 雪の断罪
三月に入ってもなお冷え込み、雪のちらつきそうな冬空が理学棟を包む中、柳研究室は氷の底のような静寂に沈んでいた。
颯汰と葉を遠ざけてから数日後のこと、柳は一人、研究室に隣接した温室スペースで立ち尽くしていた。
「……なんてことに。ひどいありさまだ」
それは、颯汰が大事にしていた雪幻桃の鉢植えだった。『渉先輩が戻るまでに、最高の花を咲かせるんだ』と息巻いて世話をしていた。奇跡的に助かった精霊加護の木。驚異的な成長を見せ、本来ならこの時期には、淡い雪のような白花を枝いっぱいに誇らせているはずだった。しかし、今や見る影もなく煤け、不自然なほどに痩せ細っている。
柳は、その枯れかかった枝に指を触れた。刹那、指先を伝って、どろりとした「飢餓」の感覚が流れ込んできた。
(これは……病ではない)
雪幻桃の生命力が、外側から奪われているのではない。内側から、誰かに向かって吸い上げられているのだ。その「吸い口」の主を柳は知っている。
背後で、扉の開く音がした。
「教授、まだいたんですか。……あ、それ。もう枯れちゃったみたいっすね。片付けましょうか?」
入ってきた颯汰の声には、かつての瑞々しい情熱が微塵も感じられなかった。両眼の下には濃いクマができている。カバンには、あの『レイヴン』のタグ。それが以前よりも黒く、底知れない質量を持って揺れている。
「桃くん。……君は、最後にいつ雪幻桃(この子)に水をやりましたか?」
「え? ……さあ、覚えてないっす。最近、なんか体がダルくって、それどころじゃなくて。あ、でも大丈夫ですよ。このタグのアプリが『周囲のエネルギーを最適化してます』って表示してるんで。効率的でいいですよね」
タグを無意識に指で撫でながら、精彩を欠いた笑いで近づいてくる。鉢に歩み寄るたび、雪幻桃の残された最後の葉が、苦悶に満ちた震えを見せた。
柳の目には、颯汰の全身から伸びる「不可視の触手」が、雪幻桃のエネルギーを貪欲に啜っている様が見えていた。「執行官」の認証を得るための代償として、自ら愛した植物を贄として捧げさせられているのだ。全てはこのタグを起点としている。
「……もう、十分です」
柳は低く、地を這うような声で言った。颯汰が「え?」と足を止めた瞬間、彼へ向けて、左手を静かにかざした。
「……教授?」
「――理を返しなさい」
呟くと同時に、研究室の空気が一変した。柳の周囲に、黄金の微粒子が吹雪のように舞い上がる。それは柳の精霊である自分自身が持つ、本質の輝き。黄金の光は、一瞬にして桃くんの全身を縛り上げた。
「う、わあぁっ!? な、なんすか、これ、体が……動かない!」
「桃くん。君の体は今、そのタグを通して『略奪者』に変えられています。……このままでは、君は君自身の心まで吸い尽くされてしまうでしょう」
柳は容赦しなかった。黄金の霊力が颯汰のカバンを直撃し、銀黒のタグを強引に引き剥がそうとする。だが、タグはまるで肉に食い込む牙のように、カバンの繊維、さらには彼の意識に固着して離れない。金属同士が激しく火花を散らすような、嫌な音が温室に響き渡った。
「痛い! 教授、やめて! それ、大事なものなんだ……!」
床に這いつくばりながら、カバンのタグを守ろうと必死に体を動かしている。
颯汰の叫びを聞きながら、柳の心は千々に裂けそうだった。だが、ここで手を緩めれば、雪幻桃は死に、彼は永遠に「あちら側」のシステムに組み込まれてしまう。
「我慢しなさい。……君が守るべきは、そんな無機質な塊ではないはずです」
柳はさらに霊力を込めた。研究室の窓ガラスが圧力に耐えかねて悲鳴を上げる。自身の背後に、本来の姿――巨木の幻影が一瞬だけ、しかし鮮烈に立ち昇った。
ドォン、という重い衝撃波が走り、ようやくタグの「認証」が弾け飛んだ。颯汰は糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ち、タグは床を転がって、不気味に赤く点滅したあと沈黙した。
嵐が過ぎ去った後のように静寂が戻る。柳は肩で息をしながら、気を失った颯汰と瀕死の雪幻桃を見つめた。手の中には、剥ぎ取ったタグから溢れた「錆びた金」の雫が、嫌な熱を持って残っていた。
(……間に合った、のか。それとも、これが序曲に過ぎないのか)
床に転がるタグの光が、嘲笑っているように見えた。
外では静かに雪が降り始めていた。




