第十一話 虚構砂漠
——木草弥生い茂る三月。弥生。
季節は緩やかに進み、時折、春の気配を孕んだ風が吹き抜ける。
大学も本来なら春休みを謳歌し、希望に満ちているはずの季節。それなのに今の理学棟は、季節の変わり目の体調不良を訴える教授や学生が多く、春季の集中講義は休講になり、いくつかの研究室もひっそりと静まり返っていた。
人間のみならず、敷地の木々たちも生気を失い、新芽を出すこともなく枯れ木と化している。ニュースは連日、異常気象だと繰り返していたが――柳だけは、その真実を知っていた。
*
理学棟の時計が深夜二時を告げる頃、柳は独り、地下最深部にいた。
そこは図面には記載されていない、剥き出しの土と巨大な樹根が這う「心臓部」。数百年の間、この地の安寧を支えてきた根のネットワークが、血管のように脈動している。
「……長い間、この地を愛してくれてありがとう」
柳は眼鏡を外し、自身の胸元に手を当てた。
もう片方の手の指先を根に触れると、黄金の波紋が土を伝い、地下空間全体を照らし出す。柳は自身の「金」の属性を極限まで硬化させ、根の細部に至るまで満ちていた霊素を、自らの内へと引き込み始めた。
東京ドーム二十個分に及ぶ広大なキャンパスから、奔流のような力が逆流し、柳の体へと収束していく。それは、数百年かけて編み上げた大地そのものの記憶と、純化された生命の熱量だった。
あまりに膨大な霊素を受け入れ、肌の奥で黄金の粒子が激しく発光する。自身の肉体を、この土地すべての植物が持つ「命の貯蔵庫」へと変質させる過酷な作業。喉から、苦悶に満ちた熱い吐息が漏れた。
やがて、光が収まる。根は、力を失った抜け殻のように静まり返った。
もし朝霧くんがここをケシの毒で染め上げたとしても、吸い上げるべき力はほとんど何もない。柳は大学を、そして学生たちを、戦場から完全に切り離したのだ。
地上へ戻った柳は、誰もいない研究室を見渡した。
月明かりに照らされたデスクの上に、一通の封筒を置く。宛名は、桃木颯汰。中には、新しい雪幻桃の育て方と、彼がこれから「花守り」として歩むべき道への、短い言葉が記されていた。それは、柳が残せる唯一の「遺言」でもあった。
「さあ……おいでなさい」
柳は杖を床に突き立てた。
瞬間、研究室の床が砂のように崩れ、空間が歪む。自らの内に込めたエネルギーをあえて強く発光させ、敵への明確な信号とした。
「……根の全てのエネルギーを奪うと言いましたね、白川くん。ならば、追ってきなさい」
視界が反転し、次の瞬間、柳の足元にあったコンクリートは、熱を失った銀色の砂へと変わっていた。そこは現世のどこでもない。柳の記憶が作り出した虚構の砂漠。この景色の中で、かつて自分は絶望した。頭上には月だけが巨大に浮かぶ、果てしない砂漠。
砂丘の頂に立ち、夜風に衣をなびかせた。数分も経たぬうちに、空間が鏡のように割れた。割れ目から染み出すのは、刺すような冷たい「金」の気配と、甘ったるいケシの香気。
「……なんだここは。ずいぶんとひでぇ場所だな、ジジイ」
最初に現れたのは、コーイチ。すぐあとからは、感情のない冷たい瞳をした朝霧結奈。そして続いて、白川葉が静かに砂を踏みしめ立っていた。
「先生。……わざわざこんな『偽物』を用意してまで、僕を試すんだね」
葉の声が風に溶けて響く。彼は周囲を見渡し、微かに眉をひそめた。ここには略奪すべき植物も、人々の意識も存在しない。あるのはただ、柳の体内に隠された「霊素」だけだ。
「ここなら、余計なノイズに惑わされることもありません。……哀しき少年、そして裏切り者たち。貴方たちの野望は、この乾いた砂の下に埋めて差し上げましょう」
柳が杖を掲げると、周囲の砂が黄金の奔流となり、巨大な壁となって敵を取り囲んだ。ただ一人、精霊として――柳は怨念に捉われた少年と向き立った。月下に広がる銀色の砂漠で、遥か古から続く因縁が今、火花を散らそうとしていた。
*
静寂を切り裂いたのは、結奈の低い嘲笑だった。
「……愚かですね、柳先生。こんな不毛の地で、たった一人で私たち三人を相手にするつもりですか?」
彼女が腕を上げると、砂の上に白いケシの花が一瞬で咲き乱れた。ばら撒かれたのは植物ではなく、精神を腐食させ、視界を狂わせる「幻覚の胞子」だ。
「一人ではありませんよ。この地には、過去に散った精霊たちの『嘆き』が満ちている」
柳は動じない。掲げた杖が黄金の光を放つと、足元の砂が蛇のようにうねり、ケシの花を次々と押し潰していく。だが、その背後から鏡面のような「金」の弾丸が飛来した。コーイチの狙撃だ。
「ジジイ、無駄な抵抗はやめろ。その体にある霊素を渡せば、楽に死なせてやるって言ってんだよ」
コーイチは指先で空間を弾き、柳の砂金の壁を粉砕していく。柳の「金」が盾なら、コーイチの「金」はすべてを破壊するための刃だった。
さらに柳は「木」の属性を砂に流し込み、深層から巨大な柳の枝を具現化させた。黄金の枝が弾丸を弾き返し、結奈の毒を浄化していく。
熾烈な二対一の攻防。しかし、柳の視線は一度も彼らを見てはいなかった。砂丘の上で一歩も動かず戦いを見つめる、白川葉だけを射抜いていた。
「……白川くん。君はまだ、あの日の『真実』を知らないのですね」
柳の声が響いた瞬間、舞い上がっていた砂が止まった。
「真実……? 僕が見たのは、姉さんがあの男に殺され、化け物に変えられた記憶だ。それ以上に、何があるって言うの?」
「王が望んだのは支配ではなく『平穏』でした。君が今、金城たちの力を借りて行おうとしていることは、姉君の魂をも冒涜する破滅行為。それが分からないのですか?」
「黙れ!」
白川葉の叫びとともに、夜空の月影が一瞬で歪んだ。
少年の背後から、人間のものではない泥のようなどす黒い『影』が湧き出す。それは葉自身の意志というよりも、彼の身体の半分を蝕む異質な闇そのものが、蠢き暴走しているかのようだった。
黒い泥のような触手が砂を喰らい、空間そのものを侵食していく。黄金の枝が触れた端から黒く蝕まれ、ボロボロと砂に還っていった。結奈とコーイチでさえ、その異様な闇の気配に息を呑み、数歩退がった。
「先生……。あなたはいつもそうだ。そうやって賢しらに言葉を並べ、僕を愚か者扱いする。もう、いいよ。あなたが霊素を渡さないなら、その体ごと『壊して』あげる」
影に半分呑まれかけた白川が右手をかざすと、黒い蛇のような闇が一斉に柳へ襲いかかる。その瞬間、柳の内に満ちた膨大な霊素が、内側から爆ぜるような痛みを上げた。
◆颯汰視点◆
――同じ頃。砂漠の戦場とは遠く離れた理学棟。
柳研究室で、床に落ちていた「レイヴン」のタグが不気味な赤い光を放ち、一通の手紙を握りしめたまま呆然としていた颯汰の視界をジャックした。
「……う、あ……なんだ、これ……!?」
颯汰の鎖骨あたりが激しく熱を帯びると同時に、網膜へ、恐ろしい光景が直接流れ込んできた。
月が浮かぶ異質な銀色の砂漠――そこで、柳教授がコーイチや結奈、そして背後に気味の悪い黒い影を纏わせた白川くに囲まれ、胸を押さえて膝をつこうとしている。
「教授……!? これ、柳教授なのか……!? なんでこんなところで……ッ!?」
手紙を強く握りしめたまま、颯汰は息を呑んだ。
詳しい事情は何も分からない。なぜ教授がこんな恐ろしい場所に一人でいるのかも、なぜあの白川くんが底知れない黒い影を従え、冷酷な顔で教授を追い詰めているのかも。
ただ一つ解ることは、柳教授が命の危機に晒されているという凄惨な事実だけだった。
「待てよ……嘘だろ……! やめろ……教授!!」
手足の震えが止まらない。何が起きているのか理解が追いつかない焦燥感と、教授を失う恐怖が、颯汰の胸を激しく締め付けていた。




