第三話 小さな観察者
二月に入ると、窓の外、まだ枯れ色の残る中庭の隅では、マンサクの黄色い花が火花のように弾け、冬の終わりを告げている。廊下を吹き抜ける風には、湿った土の匂いと、どこか冷たく凛とした水仙の香りが混じり始めていた。
「先生、こんにちは。……また来ちゃいました」
ドアの隙間から覗く笑顔は、どこか遠慮がちながらも明るい。
柳教授は机から顔を上げ、微笑んだ。
「ようこそ、白川くん。今日は……窓辺のあの子に呼ばれたのかな?」
葉が少し首を捻り、指差した方向へ視線を動かした。次の瞬間、満面の笑みを浮かべて窓辺に走り寄る。
「あ、これ。土からいきなり黄色い顔が出てます。面白いですね」
「それは福寿草です。彼らは太陽の光を集めるために、パラボラアンテナのような形で咲くんですよ。冬の弱い光を少しも無駄にしない、賢い生き方だと思いませんか?」
「へぇ、そうなんだ……。光、大事だよね」
少年は感心したように鉢を覗き込み、それからいつものスケッチブックを開いた。
「この前の夢の木、また出てきたんです。でも空じゃなくて……地面の下に広がってました。まるで根が大陸みたいに動いていて、虫や光る種が中にいるんです」
教授は深い興味を込めて笑みを浮かべた。
「君の夢は本当に面白い。植物の地下構造を直感的に捉えられるなんて、立派に研究者の素質がありますよ」
「研究者……ぼくが?」
「ええ。観察して、記録して、疑問を持つ。それが科学の始まりです」
少年は照れくさそうに笑ったが、ふと真剣な顔をして柳を見上げた。
「……ねぇ、先生。植物もお喋りするんですか? 夢の中だと、さわさわって音が全部言葉みたいに聞こえるんです」
柳は一瞬だけ沈黙し、窓の外の木々へ視線を投げた。
「直接耳で聞くことはできませんが、彼らの『状態』は木肌や葉っぱから見ることはできます。白川くん、君が感じているそれは、とても大切な感覚ですよ」
彼は不思議そうに頷き、いつも「フウ」の鉢が置いてあった空席の棚に視線を向けた。
「……先生、ここ。ここには何か……植物が置いてあったんですか? ぽっかり穴が空いている気がして……」
柳はその言葉に胸を突かれた。この少年の感受性は、やはり普通ではない。
「……そこに置いてあった子は今、主の側で寄り添っているのです。必要としている人の元へね」
「ふうん……。あ、この植物、なんていうんですか?」
隣の棚にある別の鉢を指差した。
「それはガジュマルといって、クワ科イチジク属の植物です」
「この根っこみたいな枝、面白いですね。地面を目指して、タコみたいに足を出してるみたい」
「それは枝ではなくて『気根』というんですよ。空気中から水分を取り込み、自らを支えるために地面へと伸ばす根のことです。それに、面白い話があります」
柳は眼鏡の奥の瞳を穏やかに細めた。
「この木は別名『精霊の木』とも言われているんです。熱帯地方では、キジムナーという精霊が住み着き、幸せを運んでくると信じられています。君の夢に出てくる『巨木』にも、もしかしたらそんな気根が、空の水分を求めて伸びているのかもしれませんね」
驚いたように目を丸くし、まじまじとガジュマルの複雑な気根を見つめた。
「精霊の木……。そっか。だからこの部屋、不思議な感じがするんだ」
嬉しそうに頷くと、スケッチブックの片隅に精霊の木・ガジュマルと書き留めた。
*
白川少年が帰ったあと、入れ替わるように研究室の扉が開いた。
「教授、お疲れ様です。……あれ、今の子が例の中学生ですか?」
やってきたのは桃木颯汰。期末試験と進級を控えた慌ただしさの中、報告に来たらしい。
「ええ。白川葉くんです。とても瑞々しい感性を持った少年ですよ」
「へぇ……。あ、これ、あの子が描いた絵ですか?」
颯汰が机の上に開かれたスケッチブックを覗き込んだ。螺旋を描く樹、空へ伸びる根。
「すごいな……。渉先輩がこれを見たら、なんて言うかな」
彼の口から出た名に、部屋の空気がわずかに重みを増した。柳は穏やかに、だがどこか遠くを見るような目で応じる。
「集音路くんなら、きっとこの独創的な構造を面白がって、一晩中観察記録をつけ始めるでしょうね」
「……そうっすよね。あ、教授、今日の面会はどうでした? 俺、昨日の夕方行ったんですけど、相変わらず安らかな顔して寝てました。フウも葉っぱを震わせて迎えてくれて……」
柳は頷いた。
「私も午前中に行ってきました。数値は安定していますが、まだ……深い旅の途中のようです」
「長い旅っすね、先輩。……でも、不思議ですよね。あの少年が来るようになってから、研究室の空気が前より寂しくなくなった気がします。渉先輩がいなくて、フウもいなくて、正直めちゃくちゃ心細かったんですけど」
照れ笑いを浮かべながら、空っぽの机に手を置いた。
「教授や俺も、時間がある時に通ってはいますけど……やっぱり、ここに戻ってきてほしいですね」
「ええ。……ただ、白川くんという新しい『風』が、集音路くんの旅を終わらせるきっかけになるかもしれない。そんな予感がしているのです」
「えっ……あの中学生が、ですか?」
柳は少しだけ首を傾げ、穏やかに笑んだ。
「集音路くんは理で、白川くんは勘で世界を見ていると、私は感じるのです。正反対のようでいて、根底にある『純粋さ』は驚くほど似ている。植物に好かれる人間というのは、そういうものなのかもしれません」
颯汰はその言葉を噛みしめるように聞いていた。
「そうっすか……俺も頑張らないと……」
ぽつりと漏れた言葉には、彼なりの固い決意が混じっていた。「花守り」という自覚が、颯汰の中で何かが変わりつつあるのだろう。以前よりも植物に語りかける姿は、この研究室の穏やかな調和を護ろうとしているように見える。それが自分に与えられた役割なのだと、彼自身が言い聞かせているようだった。
「先輩が戻ってきたとき、胸を張って『ここを守りました』って言いたいですから」
少し気負ったような言葉に、柳はふっと目を細めた。
——頑張る、という言葉。
それは柳にとって、あまりにも人間らしく愛おしい響きだった。数千年の歳月をただ「在り続ける」ことで越えてきた精霊にとって、その一生懸命さは眩しく、どこか危うい輝きを帯びて映る。
「桃くん。頑張ることも大切ですが、時には根を休めることも必要ですよ。植物が、ただそこに在るだけで空気を浄化するように、君がここに居る。それだけで、十分に果たせている役目もあるのです」
無理に励ますようなことはせず、ただ優しく肯定するように言った。
「……それに、君がそうやって誰かを想う心そのものが、遠い旅路にいる彼にとっての道標になっているはずですからね」
颯汰は照れくさそうに頭を掻き、「……だといいっすけど」と笑った。その表情からは、先ほどの強張りが少しだけ解けていた。
窓の外では、時折、凍てつく風が枝を渡り、まだ眠りの中にある桜の蕾を揺らしていた。季節は冬の終わりにあるが、水面下でも何かが動き出そうとしている気配を感じた。
「春は、そう遠くないのかもしれませんね」
柳の言葉は、冷たい空気の中に溶け始めた微かな花の香りと共に、夕暮れの研究室へ溶けていった。




