第二話 訪問者
講義が一段落し、学生たちの足音が徐々に減っていく時間帯。夕陽が窓越しに斜めの光を落とし、研究室には淡い橙色が差し込んでいた。
柳は、手に数冊の資料を抱えて研究室の扉を押し開けた。
室内は整然としている――はずだった。
しかし、すぐに違和感を覚える。
机の上のルーペの角度が、わずかに違う。標本箱の引き出しが、ほんの少しだけ開いている。そして、温度計の針が普段よりも一目盛りほど高い。
「……誰か……いたのでしょうか」
独り言のように呟いた瞬間、背後から柔らかな気配がした。振り返ると、入口の陰にひとりの少年が立っている。
年の頃は十四、五。黒髪が少し乱れたまま、制服姿に肩掛け鞄を提げていた。どこか場違いな――けれど真っ直ぐな瞳をしていた。
「ご、ごめんなさい! 勝手に入っちゃって……!」
少年は慌てて頭を下げた。柳は驚くどころか、穏やかに目を細めた。
「君の足音がしませんでした。まるで風のようでしたね」
「え……?」
「普段ならここの床が鳴るんですよ」
歩いてみせると、床がきゅっきゅと鳴った。
「ほらね。でも君は気配もなく現れた。……興味深いですね」
少年は困ったように笑い、名乗った。
「ぼく、白川葉っていいます。白菊学園中等部二年です」
柳は椅子を勧め、自らも静かに腰を下ろした。
「白菊学園? この大学の近くですね。……ところで白川くん。どうして私の研究室に……来てくれたのですか?」
「えっと……学校の先生から柳先生のことを聞いたんです。植物の研究をしてるすごい人だって。ぼく、植物が好きで……家でも苔とか育ててるんです。それで、もしかしたらこの絵の意味がわかるかなって思って……」
鞄から取り出されたスケッチブックには、一面に『枯れて倒れかけた巨大な枝垂れ桜』が描かれていた。太い幹は痛々しく裂け、枝先からは花弁ではなく光の雫が溢れて散っている。現実離れしていながら、圧倒的な「悲しみ」の波動を感じる絵。それにこの絵は、昨年に起こった桜の倒木に似ている。
「この木の夢を、何度も見るんです。すごく胸が苦しくて……気づいたら描いていて……」
柳はスケッチを手に取り、じっと見つめる。
「……ふむ。美しい、けれど切ない絵ですね。ですが、これは夢というより、去年のニュースにあった倒木を……」
「やっぱり先生も、ただの老木の倒木だと思いますよね! でも、ぼく……この木を知ってるんです。それにこの木は、3年前に僕の家の神社で出会った……大切な人の夢と、つながってる気がして」
「大切な人……?」
「はい。記憶を失っていた人だったんだけど、実の姉みたいに優しくて……。でも、昨年の春、桜野町の丘に立っていた千年の枝垂れ桜が倒れたとき、その人も急にいなくなっちゃって。それに……周りのみんなはその人のことを誰も覚えてないんです! 僕だけが、ずっと忘れられなくて……」
柳の表情が、微かに硬直した。
――桜野町の千年桜。渉が会ったという桜の精霊を、この少年も覚えている。
(……まさか……)
柳は努めて穏やかな学者の仮面を保ち、スケッチを閉じて机に置いた。その瞬間、窓際の観葉植物が、ほんのわずかに震えた気がしたが、すぐに錯覚だと気づく。いまは病室で渉に寄り添っているはずのその鉢の「空席」を、柳は一瞬だけ見つめた。胸を突くような寂寥を押し殺す。
「君の見た夢が何を意味するのか……私でよければ、一緒に考えてみましょう。私は学者で、未知の事柄には、敬意を払う主義でしてね」
葉は少し安心したように微笑んだ。
「本当ですか? ……ありがとうございます!」
窓の外では、夕陽が校舎の影を長く伸ばしている。
かつての夕刻なら、ここで熱心に顕微鏡を覗く青年の姿があっただろう。今はその気配のないことが、柳の肌を冷たく刺した。廊下を通り過ぎる足音に思わず耳を立てる。だが、それは事務職員の慌ただしい靴音でしかなく、聞き慣れたあの穏やかな歩調ではない。
少年がその空っぽの机をちらりと見て、ぽつりと呟いた。
「……ここ、誰かが使ってる机ですか? なんだか……すごく優しい匂いがします。……桜の匂いにも、似てるような……」
柳は一瞬、言葉を詰まらせた後、深い愛しさを込めて答えた。
「……集音路渉くんという、私の大切な教え子の席です。今は少し……遠い場所へ、旅に出ていましてね」
「しゅうおんじ……さん」
葉はその名を小さく反芻し、あどけなく頷いた。
この日を境に、少年は定期的に柳研究室へ来るようになった。
*
窓を、薄い夕暮れの光がゆっくりと包み込んでいく。そして来る度に白川少年は、いつも夢の続きや絵のことを語っていた。倒れた桜の根元から伸びる黒い影。その光景を見つめる、顔のない群衆。
「……あの人は、ずっと苦しんでいたんです。誰にも助けてもらえないまま、一人で……」
その語り口には、空想というより、肌で感じてきた傷口のような現実味を帯びていた。
「……その人は、何かを訴えているのですか?」
「はい。僕に言ってるんです。『あの男に奪われた』って。……夢の最後に出てくるんです。僕の知らない誰か……たぶん男の人で、お姉さんの最後の光を奪っていくんです……」
柳の指先が、ぴくりと震えた。
葉の語る夢は、思い出したくもない記憶そのものだった。
「……白川くん。その夢は少し……危険な感じがします。君の悲しみは理解できますが、見えているものが『すべて』とは限らない……」
「僕には見えます。お姉さんの悔しさも、そして、お姉さんのことを忘れて笑ってるこの世界も……全部」
少年――白川葉が帰り際、どこか寂しげに微笑んで手を振る。
その背中が見えなくなると、柳は深く椅子の背もたれに体を預けた。
沈黙が戻る。
柳は、目を閉じた。少年の心に刻まれた絶望と、冷えた蝋梅の香りが部屋に満ちていく。




