第一話 空白
新章、お待たせしました!
第七章は柳教授の回となります。
時間は少し遡り、集音路渉が眠っている間の話……。
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もう一月も終わりに近づいていた。
そういえば、一月のことを和名では、睦月という。
この名の由来は、正月に親族や家族が集まり、仲睦まじく過ごす「睦び月」が略されたという説だそうだ。
大学の研究室でも、長い時間を共に過ごすこともあり、気持ち的には家族のようだと柳緑水は感じていた。だからなのか、「教え子」という言葉はあまりにも簡単すぎる。
それに長い年月、見守ってきた。いまも昔と変わらずに、見守っていたはずだった。それなのになぜ渉は神核接合を使えたのだろうか。これまでの彼の人生で、その気配すら感じたことはなかったというのに。かの王の目覚めが近いのだろうか。
ピッ、ピッ、ピッ。
白いシーツ、白い天井。そして、一定のリズムを刻み続ける無機質な電子音。
病室の窓から差し込む陽光は、眠り続ける青年の頬を淡く照らしているが、その睫毛が震える気配はない。
柳緑水はベッドの傍らに座り、青年の冷えた指先にそっと触れた。
数千年前、熱い砂漠で繋いだ手の温もりも、幾多の時代で傾けた傘の重みも、すべてはこの一瞬の沈黙のためにあったかのように。
「……今はまだ、ゆっくりと旅を続けていなさい。貴方が戻る場所は、私が守っておきますから」
青年の手のひらには、うっすらと桜の模様らしきものが見えた。
「これは……」
千年桜のものだろうか。やはり彼女は気づいていたらしい……。
かすかに葉の擦れる音がした。
ベッドテーブルの上には観葉植物の姿をした記憶樹種、植物精霊のフウが葉を揺らしていた。
「フウ、彼をお願いしますね」
「うん、任せて! ところで博士、あれは?」
フウが葉を揺らし、ベッドから離れた丸テーブルのほうを指し示していた。テーブルの上には、茶色い鉢が置いてある。
「ああ、あれは大きくなった雪幻桃を株分けしてきたものです」
「そっかぁ。嬉しいね」
「話し相手がいるなら、あなたも寂しくないでしょ」
「えへへ、ありがと。博士」
フウは嬉しそうに葉をそよがせた。
渉が深い眠りに落ちてから、早くも二ヶ月が過ぎようとしていた。
瞬きの一幕に過ぎないはずの時間が、今は一秒ごとに渉の存在がこの世界から希薄になっていくような、耐え難い空白として重くのしかかる。
フウの葉がカサカサと揺れる様子から、彼女が雪幻桃とお喋りを楽しんでいるのが伝わってくる。邪魔してしまうのは不本意だが……。
「ところでフウ。あの約束を覚えていますか?」
*
柳緑水という存在。
柳の精霊でありながら、木と金の二つの属性を宿す精霊界屈指の異彩にして、希有な天才。同胞たる精霊たちは敬意を込めて『柳博士』と呼び、かつては精霊王の側近として仕えていた。いまは素性を隠して人間界に紛れ、大学教授という肩書を借りて静かに暮らしている。
いつの時代でも、柳の一日は静かに始まる。
朝六時前。大学の正門がまだ固く閉ざされている頃、すでに柳の姿は古びた理学棟の三階にあった。
研究室の扉を開けると、薄い木の香りと湿った土の匂いが迎える。
窓際の長い棚には十数鉢の植物が並んでいた。南方の蘭、苔玉、実験用のユーフォルビアが静かに佇んでいる。そして隣には――本来なら「フウ」がいるはずのぽっかりと空いた指定席。いつも明るく話しかけてくれた面影が浮かんだ。
柳はふと眉間を指で押さえた。疲れているのか、視線が一瞬、揺らいだ気がした。春を待つにはあまりに遠く、冬を越すにはあまりに静かすぎる。視線は自然とカレンダーの数字を追っていた。
(これほど、時が流れるのを恐ろしいと思ったことはない……)
気持ちを切り替えようと、柳は一つひとつの鉢に手をかけ、水を与え、枯葉を摘み取り、葉の裏を軽く指でなぞる。
「おはよう。今日も変わりないようですね」
まるで長年の友人に話しかけるような声。植物たちは小さな声で返事をする。
人には届かぬ彼らの声を、柳はテレパシーのように直接心で受け止める。それは精霊である自分にとって、息をするのと変わらない至極当たり前の営みだった。
微かな風が葉の間を通り抜ける。柳はふと窓の外へと視線を向けた。嘆いてばかりはいられない。まだやらなければならない職務がある。
日々慈しんでいるのは、この部屋の鉢植えだけではないのだから。
柳は目を閉じ、掌をゆっくりと床についた。意識を沈めれば、理学棟のコンクリートを透過し、地下深くへと潜っていく。そこには、東京ドーム二十個分という途方もない広さを誇るキャンパス全域に張り巡らされた、巨大な「根のネットワーク」が息づいていた。
数百年の歳月をかけて構築し、育て、守り抜いてきた沈黙の系譜。
表向きはただの街路樹や植え込みに過ぎない植物たちは、土の下で柳の霊力を共有し、高密度の霊素を循環させる巨大な回路となっていた。大学をはじめ、この地の安寧は、柳の手によって紡がれた「緑の血管」によって密かに支えられているのだ。
365日、この広大なネットワークの健康状態を確認し、澱みを排し、調整すること。それをただ独りで日課として行ってきた。研究棟の灯がほとんど落ちている日でも、柳だけは必ずどこかの窓に影を落とし、大地の鼓動に耳を傾けていた。
*
講義が始まるのは十時。教室に入ると、学生たちは自然と姿勢を正す。教授はゆったりとした口調で話し、時折、窓の外の木々を例に挙げて説明を加える。
「植物とは沈黙の思考者です。語らずとも選択し、動かずとも世界を読み取る。その生き方は、人間の理性よりもはるかに長い時間で語られます」
学生たちは静かに聞き入り、質疑応答の時間になると穏やかに議論が起きる。柳教授は一人ひとりの意見を肯定的に受け止め、要点を整理しながら新たな問いを返す。その姿は学問の導師のようであり、同時に誰よりも柔らかな空気をまとっていた。
他の教員からの信頼も厚い。廊下ですれ違うたび、若い講師が「教授、少しご相談が……」と声をかける。柳教授は立ち止まり、腕を組み、静かに話を聞く。そのやり取りのあとには、決まって相手が安堵の笑みを浮かべて去っていく。教授の通った廊下には、風が通り抜けたような穏やかさが残ると、学生たちは密かに言っていた。
午後になると、研究室では指導教官としての時間が始まる。
学生たちの報告を聞き、観察記録に目を通し、的確なアドバイスを返す。教授の言葉には、いつも「自然と人」の両方を見据えるような洞察があった。
そうして夕刻。
学生たちが帰り、研究室が再び静まり返るころ、柳教授は一人、机に向かって資料を整理していた。窓の外からは、冷気に混じって早咲きの蝋梅の花香が漂う。
いつものように、穏やかで、変わらないはずの午後。
だが――その日だけは、違っていた。
第二話へ続く




