エピローグ:種の記憶
ピッ、ピッ、ピッ。
電子音が、遠くから聞こえる。
重い瞼を押し上げると、そこは消毒液の匂いが漂う白磁の部屋だった。
体が重い。
拘束されているわけでもないのに、腕を動かすことができない。
「……っ」
渉は、肉体へ引き戻される衝撃に、浅く息を吸い込んだ。
指先に残っているのは、あの斧の重みと、そして――掌の中で熱く脈動していた、あの真紅の種の感触。
視線を動かし、枕元を見ると、そこには小さな鉢植えがあった。
どこか見覚えのある、温かみのある茶色の鉢。
この植物には名前があったはずだ。頭は霧がかかったようで、思い出そうとしても真っ白なままだ。ふいに窓のカーテンが揺れ、微風が頬を撫でた。
春に匂いを孕んだその風が鼻腔に届くと同時に、なぜか不思議とひとつの名が脳裏に浮かび上がった。
「……フウ?」
そうだ。この子は「フウ」。
渉の目覚めに気づいたのか、フウは、まるで泣いているかのように、震える葉を懸命に伸ばして渉の頬に寄せた。
――『渉? 目が覚めたの?』
頭の中で、フウのか細い声が聞こえた。泣いているのか。
「フウ……やな……柳……教授は?」
掠れた声で問う。しかし、夢の中のどの時代でも必ず側にいたはずの、あの男の姿はどこにもない。
――『博士?』
フウのささやきが、直接頭の中に響いた。
――『博士はここにはいないよ。またいつもの研究室にいるんじゃないかなぁ……』
「フウ……教授は……ほんとうは、……なにもの?」
問いかけながら、渉はフウの葉が放つ微かな光を見つめた。
フウは「記憶樹種」。精霊界でも稀な、万物の記憶を種に刻み、共有する一族。
ふと、ワトとして最期にイアナへ託した「真紅の実」を思い出す。あの実は、数千年の時を経て、フウへと繋がっているのではないか。あるいは、フウそのものがあの時の「実」の再来なのか。
植物精霊としてのフウと柳教授の間には、渉には計り知れないほど強固な「約束」の気配があった。
精霊にとって約束を破ることは、存在を否定することに等しい。
それはあまりにも誠実で、融通の利かない、呪いにも似た「縛り」。柳教授が姿を変えずに自分を待ち続けていたのも、その「縛り」ゆえなのだろうか。
意識が再び朦朧とし、瞼が重たくなってくる。
教授……貴方はどこにいるのですか?
何千年もの間、僕を見つけ出し、支えてくれた貴方は、なぜ今ここにいないのですか。
ピッ、ピッ、ピッ……。
一定のリズムで刻まれる心拍音。
白い天井が、ぼやけてくる。
遠くからドアの開く音と共に、数人の足音が近づいてきた。
「集音路さん、聞こえますか? 聞こえたら瞬きで教えてください」
聞き覚えのない看護師の声。それでも反射的に、何度か瞬きを返す。
「もう大丈夫ですからね。ご家族には連絡してあります。すぐこちらへ来てくれますよ」
腕に触れる、誰かの手。
けれど――違う。
夢の中で、何度も自分を現世へ引き戻してくれた、あの指先の温もりとは違う。
掴もうとする力の深さが、祈りの質が、決定的に違うのだ。
「……やな、ぎ……」
言葉が続かない。
「……柳……教授……は……?」
その問いを口にした瞬間、意識が、再び揺らいだ。
答えが返ってきたのかどうか、それすら、わからない。
声が現実のものだったのか、それともまだ夢の続きだったのか――判別がつかない。
――目覚めたら、一番に貴方に会いたかった。
微睡の底へ沈みながら、渉の意識は、最後にこう問いかける。
――僕が数千年の眠りの中で、貴方と再会していた時。本当の貴方は、どこで、何をしていたのですか。
規則正しい機械音だけが、静かな病室に、淡々と響き続けていた。
第七章へつづく




