第九話 光さす王宮
聖樹が砂となって崩れ去った翌朝、王宮を包んでいた重苦しい空気は、嘘のように晴れ渡っていた。
王の寝所にも変化が訪れていた。
少年王アメンは、あの深い眠りからついに目を覚ました。
体内に澱んでいた聖樹の呪縛が消えたことで、彼の頬には健康的な赤みが差し、その瞳にはかつてない確かな光が宿っていた。
「……ごめんなさい、ワト」
アメン王は、駆けつけたワトの手を握り、ぽろぽろと涙を流しながら告白した。
紫の花を飲んだのは、誰かに盛られたからではなかった。侍女たちの会話、「毒だが薬にもなる」と言っていたのを盗み聞きし、それを飲めばもっと元気になってワトが喜ぶとなり、ワトがずっと側にいてくれると思ったからだという。あまりにも幼く、孤独ゆえの無謀な願いだった。
一方、聖樹を汚し、罪人の命を弄んでいた摂政ザルクと高官たちは、イアナ・ヌブによってすべて捕縛された。
「彼らは処刑しません。けれど、生涯あの冷たい石壁の中で、自分が奪ってきた命の重さを数えて過ごしてもらうことになるでしょう」
少年王は、幼いながらも王としての峻烈な裁定を下した。それは彼が「操り人形」から脱却し、自らの足で歩み始めた証でもあった。
*
数日後、ワトは荷物をまとめ、王都の門に立っていた。聖樹を終わらせ、王を救った今、自分という異分子はこの場を去るべきだと考えたからだ。
「本当に行ってしまうのですか、ワト殿」
イアナ・ヌブが、沈痛な面持ちでワトの前に立ちはだかった。
「……はい。私は風のように現れた異邦人です。役目を終えた今、元いた場所へ帰るべきでしょう」
ワトが静かに微笑むと、イアナ・ヌブは首を振り、その視線を王宮の壁の向こう――活気を取り戻し始めた王都の街並みへと向けた。
「役目は終わってなどいません。見てください。貴殿が王を救い、聖樹の呪いを解いたことで、人々は希望を見出しました。けれど、乾いた大地に水が戻るように、人々の心と体を癒やすには、まだ貴殿の知恵が必要なのです」
イアナ・ヌブは一歩、ワトに近づき、真剣な眼差しで訴えた。
「王宮だけでなく、農園にも、貧しい者の家々にも、貴殿が愛でる草花が芽吹く場所が必要です。……私一人では、この国を真の意味で潤すことはできません。どうか、私の傍で、この国を共に支えてはくれませんか」
その言葉は、高官としての要請ではなく、一個人として発した、切実な「請願」のように聞こえた。
ワトは門の外に広がる砂漠と、背後の街を見比べた。街の草木が、ワトを引き留めるようにざわめいている。
――『ワト、ここに居て!』
――『ワト、君の助けが必要だ!』
――『ワト、ワト!……』
草たちの声はとどまることを知らないように、語りかけてきた。
目の前にいるイアナ・ヌブは、「ここに居てください」と静かに目で語りかけてくるような気がした。
ワトは、小さく息を吐き、ゆっくりと答えた。
「……わかりました。この都が、本当の意味で緑に包まれるまで、ここにいます」
イアナ・ヌブは優しく微笑みながらワトの手を両手で包むように握り「ありがとう、ワト殿」と言った。
それから二人はゆっくりと王宮への道を戻って行った。
*
それからの歳月、ワトは「黄金の都の癒やし手」としてその生涯を捧げた。
もう彼を「異能者」と蔑む者はいない。イアナ・ヌブが常にその盾となり、ワトの知恵が人々の暮らしを豊かにすることを示し続けたからだ。ワトの助言によって整備された農園は豊かな実りをもたらし、王都は歴史に語り継がれるほどの「緑の黄金時代」を迎えた。
ワトはふとした瞬間に気づくことがあった。
自分が薬草を調合している時、農園で土に触れている時、いつも背後には静かな気配があった。厳しい寒さの日には温かな風を送り、照りつける暑い日には涼やかな影を落としてくれる。
(ああ……あなたは、いつだって僕を支えてくれていたんですね)
それはイアナ・ヌブであり、同時に、目に見えないほど巨大な「守護の意志」そのものだった。
時が流れ、ワトは穏やかな老いを迎えた。
王宮の庭園、かつて聖樹があった場所は人々の憩いの場として花が咲き乱れている。そこにワトは横たわっていた。側には、あの日からずっと色褪せない「真紅の実」を握りしめたイアナ・ヌブが、昔と変わらぬ姿で座っている。
「イアナ・ヌブ様。……私は、幸せでした」
ワトの微かな声に、イアナ・ヌブがその温かな手で、ワトの皺の刻まれた手を包み込んだ。
「……また、どこかで会えるでしょうか」
ワトが最後の力を振り絞って問うと、イアナ・ヌブは慈しむような微笑みを浮かべ、ワトの耳元で囁いた。
「ええ必ず会えます。約束しましょう」
その答えを聞いた瞬間、ワトの意識は穏やかに、黄金の砂へと溶けていった。




