第八話 堕ちた聖樹
満月の夜、王宮の最深部にある禁忌の広間は、どろりとした赤黒い光に満たされていた。ワトは他の罪人たちと共に、聖樹の前へ座らされていた。
中央に鎮座する「記憶の聖樹」は、かつて精霊界の端から根付いたと、牢獄の苔たちが教えてくれた。しかし、もはや清らかな神聖な雰囲気ではなく、どす黒い霧のような影を纏い、うごめく無数の根が床を這い生温かい湿気と臭気を放っている。
罪人の一人が祭壇に縛り付けられていた。目は虚ろで、自分がどこにいるのかさえも分かっていないようだった。ザルクが杖を振るい呪文を唱えると、聖樹の根が蛇のように罪人の身体に巻き付き、その肌から直接、命を吸い上げ始める。
「……あ、あぁ……」
罪人の身体がみるみるうちに枯れ木のように萎んでいく。その凄惨な光景に、次に控えていたワトは息を呑んだ。
「次はワト、お前の番だ」
「やめろ! 離せ!」
必死に抵抗するが、強固な兵士はびくともしない。押さえつけられ、腕や脚に縄が食い込むほど縛り付けられた。さらに背後の聖樹から発する禍々しい気がワトを襲い、目が眩んだ。
――『意識を保て、ワト!』
それは服に忍ばせていた紫の花の声。
ワトは何度も首を横に降って、正気を保とうとした。
聖樹は本当に怪物となってしまったのだろうか。ふと、そんなことを思った瞬間、禍々しい気の中に微かな清らかな光を感じとった。
とても小さな、消え入りそうな声が届く。
――『いやだ、いやだ……たすけて』
わずかに残った聖樹自身のすすり泣き。数千年の間、人間たちの醜い記憶と怨念を無理やり吸わされ続け、その重みに耐えかねた聖樹の魂が、限界を迎えていた。
祭壇に縛り付けられたワトの前に、摂政ザルクが立ち、冷酷な笑みを浮かべた。ワトの足元を粘り気のある根が絡みつく。
だが、ワトは気づいていた。
その根はワトを殺そうとしているのではない。助けを求めるように、縋るように、ワトの体温を求めて震えていることを。
そっと目を瞑り、聖樹へ語りかけた。
(もう大丈夫。僕が貴方を助けます……)
「さあ、聖樹よ。この異能者の血を啜り、再び我に永遠の治恵を授けよ!」
ザルクが剣を振り上げたその時、聖樹の根が猛然と暴れ出した。その矛先は生贄であるワトではなく、剣を構えたザルクへと向けられた。
「なっ……何事だ! 聖樹よ、鎮まれ!」
「――その樹は、もう貴殿の毒など欲してはいない」
影の中から、イアナ・ヌブが静かに歩み出た。清らかなチリン、という音とともに。
彼は黄金の杖を地に突き立てる。その瞬間、足元から鋭い金の茨が走り、ザルクの手から剣を弾き飛ばした。
「イアナ・ヌブ! 貴様、謀反を働くか!」
「謀反は貴殿だ、ザルク。聖樹を貶め、罪なき人を虐殺し続けてきた!」
「全ては王のため!」
「それは戯言に過ぎない! 証拠は全て揃っている!……ワト殿、今です!」
イアナ・ヌブの叫びと同時に、ワトの手足を縛っていた縄が、まるで見えない刃で切られたように弾け飛んだ。ワトは懐に隠し持っていた、あの古びた斧を握りしめ、聖樹へと向かっていく。
――『ワト、お願い……! この鎖を……悲しい記憶の鎖を、切って!』
聖樹の悲痛な叫びが、ワトの全身を貫く。
ザルクが衛兵を呼ぼうとするが、暴走する聖樹の根が彼らを壁際へと追い詰め、身動きを封じていく。聖樹自身が、イアナ・ヌブと協力し、終わらせるための隙を作っているのだ。
「……お疲れ様。もう、誰も傷つけなくていいんだよ」
ワトは聖樹の幹、最も激しく光り、脈打っている「核」へと斧を振り下ろした。
ガツッ!
何度も斧を振り下ろす。
乾いた音が響き渡り、次の瞬間、聖樹の亀裂から溢れ出したのは血ではなく、眩いばかりの白銀の光だった。
数千年の間、無理やり溜め込まされてきた人間たちの業が、浄化の風となって吹き抜ける。聖樹は最期の瞬間に、大きな、安らかな溜息をついたように見えた。そして――。
――『ありがとう、ワト……』
光に混じって砂が舞い上がる。
巨木が崩れ去る中、ワトの足元に、ひとつの塊が転がってきた。
手のひらに収まるほどの大きさ。脈打つような「真紅の実」。
ワトはそれを拾い上げ、隣に立つイアナ・ヌブの手にそっと置いた。
「イアナ・ヌブ様。……これを、貴方に託します」
「……これは?」
「聖樹の実です。でも、今はまだ、誰にも触れさせてはいけない。毒が抜けて、この子がまた静かに芽吹ける日まで……どうか、封印して、休ませてあげてください」
イアナ・ヌブは、その赤い実の熱に、喉を詰まらせたように息を呑んだ。
「……約束しましょう。たとえどれほどの星霜が流れようとも、私はこの種を抱き、貴殿が再びこの種を呼ぶその日まで、必ず守り抜くと」
月の光が聖樹のあった場所を優しく照らしていた。




