第七話 幼き王と罠
イアナ・ヌブに連れられ、王宮の最深部にある寝所へ足を踏み入れた途端、ワトは立っていられないほどの「腐敗した命」の臭気に襲われた。
眩暈に襲われ立ちすくんでいると、イアナ・ヌブが振り向きざまに「……大丈夫ですか」とでもいうように肩に手を置いた。掌から伝わる暖かな温度に少しずつ気持ちが落ち着いてくる。
目を凝らすと、薄暗い部屋の奥で、影が蠢いている気配。近づくたび、さらに異臭が鼻をつく。
歩を進めると影の正体が見えてきた。
最初に見えたのは足を組んで座っていた、十歳に満たない少年王アメン。幼い顔立ちは青白く、その瞳には光がない。まるで精巧な蝋人形のように虚ろだ。王座のすぐ後ろには、先王の弟である摂政ザルクが、獲物を狙う禿鷹のような鋭い眼光で控えていた。
イアナ・ヌブが片膝をついて頭を下げた。彼のすぐ後ろで、ワトも同じように頭を下げる。
「イアナ・ヌブよ。その者が噂の癒やし手か」
ザルクの低く濁った声が、石造りの部屋に響く。イアナ・ヌブは一瞬だけワトへ視線を送ると、すぐに冷徹な高官の顔に戻り、再び深く頭を下げた。
「は。植物の声を聴く異能を持つ者にございます。必ずや陛下の病を突き止めましょう」
ワトは促されるように少年王の前に跪き、その細い手首に触れた。
――冷たい。
脈動は驚くほど弱く、代わりにワトの指先から流れ込んできたのは、地面の底から響くような「不気味な脈動」だった。
――これは一体どういうことだ。
ワトの視線は、部屋の奥にある巨大な扉へと向けられた。その扉の隙間から、どろりとした闇のような気配が漏れ出している。
――『飲まされている』
――『その子の命が、あの大樹に吸い取られている』
部屋に置かれた鉢植えたちが、震えながら絶叫していた。
――大樹? あの部屋の奥に、聖樹があるのか?
「……陛下」
ワトが呼びかけると、アメン王はわずかに瞳を動かした。その唇が、誰にも聞こえないほど小さな声で動く。
「た……すけて」
ザルクの監視の目が光る中、ワトはわざと大きな声で告げた。
「陛下はひどくお疲れです。……中庭に咲く、紫の花を煎じて差し上げましょう」
これは一か八かの賭けでもあった。
あの紫の花は猛毒だが薬にもなる。ただし、少しでも量を誤れば、永遠に目が覚めることはない。しかし王と聖樹を切り離すためには、この方法しかない。
*
ワトは昼夜を問わず幼い王を看病した。
そして数日後、王宮は驚きに包まれた。
死を待つばかりと思われていた少年王アメンが、劇的な回復を見せたのだ。
ワトが煎じた「紫の花」の薬は、王の魂を一時的に肉体の奥底へ隠し、聖樹の吸奪を空振りにさせた。接続を断たれたことで、王の肉体は皮肉にも休息を得ることができたのだ。
だが、その奇跡がワトの立場を危うくした。
「ワト、今日は中庭へ行こう。……そなたが側にいないと、またあの暗闇がやってくる気がするのだ」
血色の戻ったアメン王は、以前の虚ろさが嘘のようにワトに付き纏った。食事の給仕から散策の供まで、片時もワトを離そうとしない。幼い王にとって、自分を闇から引き揚げてくれたワトは、唯一の縋るべき光となっていた。
その光景を、摂政ザルクは冷酷な眼差しで、他の高官たちは嫉妬と猜疑の入り混じった目で見つめていた。
「あの異能者が、王をたぶらかしている」
「王宮の秩序を乱す不吉な存在だ」
そんな囁きが回廊に満ちる中、イアナ・ヌブだけは沈黙を貫いていた。だが、すれ違いざまに彼がワトに送る視線には、かつてないほどの警告の色が滲んでいた。
――『……このままでは、貴殿が消される』
草木たちが彼からの忠告を伝えてくれた。しかし、ワトにはどうすることもできなかった。
*
事件は、ワトがイアナ・ヌブに呼び出され、今後の薬草の調達について協議していた最中に起きた。
二人が公務の記録を確認している最中、王の寝所から悲鳴が上がる。
「陛下が! 陛下が倒れられたぞ!」
駆けつけたワトが見たのは、青白い顔で吐血し、床に崩れ落ちたアメン王の姿だった。
その指の間には紫の花。ワトが「毒の花である」と少数の侍女たちにし打ち明けていない。だから王に触れさせないよう、厳重に注意していた。それなのに、あの紫の花びら残骸が握りしめられていた。
周りにいた侍女たちはワトと目を合わせないように伏せていた。
「……ワト、貴様がやったのか! それにこれは「毒の花」だそうだな?」
ザルクが叫ぶと同時に、守護兵たちが一斉に槍を突き出した。
「待ってください! 私は今、ずっとイアナ・ヌブ様と共にいました! それにこの花が薬になるのは本当です!」
ワトの必死の弁明に、ザルクは鼻で笑った。
「黙れ。王を唆し、その純粋な心を利用して毒の花に触れさせたのは貴様だ。動機も手段も十分にある。……地下牢へ連れて行け!」
ワトは隣に立つイアナ・ヌブを見た。彼はワトが潔白であることを誰よりも知っているはずだった。だが、イアナ・ヌブは唇を白くなるほど噛み締め、何も言わずに目を伏せた。
(……助けて!)
心の中で叫ぶが、イアナ・ヌブは微動だにしない。彼はこの王宮という巨大な権力の鎖に、その身を縛り付けられているようだった。
*
地下牢は、想像していたような叫び声も怒号もなく、ただ不気味なほどの静寂に包まれていた。
湿った石壁に囲まれた独房で、ワトは膝を抱えて座っていた。隣の檻にも、その奥にも、確かに罪人たちはいた。しかし彼らは一様に、魂を抜かれた抜け殻のように壁を見つめ、微動だにしない。
「……みんな、どうしたんだろう?」
ワトが思わず呟くと、独房の隅、わずかな湿気を吸って生えていた小さな苔たちが、震えながら囁いた。
――『みんな、待っているの』
――『順番が来るのを。……あの巨大な口に、飲まれるのを』
「……口?」
――『王宮の奥底で、お腹を空かせている。……聖樹。あれはもう、木じゃない。血を吸いすぎて、怪物になっちゃったんだ』
――『聖樹は、精霊界の樹で、本当は優しい樹だったのに……』
「精霊界……」
苔たちの震えが伝わってくる。ここはただの牢獄ではない。
王宮の奥に鎮座する「聖樹」という魔物に捧げる供物を、生かしたまま貯蔵しておくための場所なのだ。ザルクは、王を救うための儀式と称し、こうして罪人たちを聖樹の糧にしていたのだ。
その時、重い鉄の扉が開き、松明の光が差し込んだ。
現れたのは、黄金の装飾を脱ぎ捨て、質素な外衣を纏ったイアナ・ヌブだった。
「……イアナ・ヌブ様」
ワトが立ち上がると、彼は格子の向こうで足を止めた。その瞳は、昼間の冷徹な態度とは裏腹に、張り詰めた糸のような危うさを湛えている。
「陛下は……アメン王は、安定しています。貴殿の薬の残りを、私自ら煎じて飲ませました。今は深い眠りについておいでだ」
「よかったです。……でも、どうして昼間、助けてくれなかったんですか? 貴方と一緒にいたことは事実なのに」
ワトの問いに、イアナ・ヌブは唇を噛み締めた。その指先が、鉄格子を強く握る。
「……あそこで私が貴殿を庇えば、ザルクは私をも大逆罪に問い、即座に処刑したでしょう。そうなれば、貴殿を救う手立てが完全になくなる。……許してくれとは言いません。ですが、貴殿を死なせるわけにはいかない」
彼は懐から、一本の鍵を取り出した。
「ザルクは明晩、貴殿を聖樹の生贄に捧げるつもりです。……聖樹は今、限界を迎えている。人々の恨みと、ザルクが注ぎ続けた呪わしい血によって、自らを維持できずに暴走を始めているのです」
「聖樹は……苦しんでいるんですね」
ワトの言葉に、イアナ・ヌブは目を見開いた。
「……ええ。あの樹は、もう終わりを望んでいる。……ワト殿、これは私からの願いです。聖樹の声を聞ける貴殿にしか、できないこと」
イアナ・ヌブが差し出したのは、鍵と、そして一本の古びた斧だった。王家の宝物庫から持ち出された、精霊界の樹である聖樹を唯一断ち切ることができる伝説の法具。
「明晩、儀式の最中に隙を作ります。……聖樹を、解放してやってほしい。そして、その命の核を……」
二人の視線が重なる。
それは、数千年の時を超えて、師と仰いだあの人が自分を守り抜こうとする意志。それが、古代の姿を借りて現れた瞬間だった。
「わかりました。……聖樹を……解放します」
ワトがその斧を受け取ったとき、地下牢に、地響きのような不気味な脈動が響き渡った。聖樹が、新しい獲物を求めて、王宮の底で身悶えしていた。




