第六話 王宮での日々
砂漠の果て、陽炎の向こうから現れたそれは、まさに「黄金の都」と呼ぶにふさわしい異様な輝きを放っていた。
高くそびえ立つ城壁、陽光を反射して燃えるような色彩を放つ大寺院。しかし、門をくぐり、王宮の奥深くへと進むほどに、ワトは足元の植物たちが発する「悲鳴」に耳を塞ぎたくなった。
――『苦しい』
――『光が足りない。水が、毒に変わっていく』
贅を尽くした中庭の草木は、一見すれば美しく整えられている。だがワトの目には、それらが黄金の檻に閉じ込められ、静かに窒息しつつあるように見えた。
*
「今日から、ここが貴殿の居所です」
イアナ・ヌブに案内されたのは、王宮の最上階に近い、空中庭園に隣接した一室だった。
室内には柔らかな敷物が敷かれ、見たこともないほど精巧な細工が施された調度品が並んでいる。村での藁の寝床とは、あまりにもかけ離れた世界。
「イアナ・ヌブ様。ここには……土の匂いがしません」
ワトがぽつりと呟くと、窓の外を眺めていたイアナ・ヌブが、寂しげに肩を揺らした。
「鋭いですね。ここは美しく飾り立てられてはいますが、命を育む場所ではない。……今のこの国そのものです」
彼は振り返り、ワトの前に歩み寄った。その瞳には、砂漠で見たときよりも深い憂いがある。
「王の病を治すには、まず、この王宮に巣食う『枯れ』を止めねばなりません。ワト、貴殿にはそのための鍵となってもらいたい」
*
王宮での日々は、ワトにとって奇妙な時間の連続だった。
朝、鳥のさえずりではなく、着飾った侍女たちが運んでくる香油の匂いで目を覚ます。
昼間は、イアナ・ヌブと共に王宮内の庭園を回り、病んだ植物たちの声を聞く。
「この木は、根元が黄金の装飾に締め付けられています」
「……そうですか。すぐに外させましょう」
ワトが指摘するたび、イアナ・ヌブは自ら指示を出し、庭園の「過剰な飾り」を剥ぎ取っていった。
その様子を、王宮の家臣たちは冷ややかな、あるいは不気味なものを見るような目で見つめていた。村人たちの「恐怖」とは違う、より鋭く、毒を含んだ「敵意」。
それでも二人は作業を続けた。王宮の植物たちがワトに助言をし、イアナ・ヌブが快く話を聞いてくれる。ワトにとって、理解してくれる人がいる、それだけで十分だった。
作業が進むたびに植物たちが本来の姿を取り戻し、解放されていく。
――『ありがとう、ワト。ありがとう、イアナ・ヌブ』
*
ある日の午後、ワトは中庭に持ち込んだ薬籠を整理しながら、隣に座るイアナ・ヌブに村から持ってきた乾いた草を一つずつ手渡した。
「これは『砂守り』の根です。熱を下げますが、そのままでは苦くて飲めない。火を通さず、こうして薄く削って水に浸すんです」
ワトが手際よく薬草を扱う様子を、イアナ・ヌブは珍しいものを見るように、熱心に、そしてどこか眩しそうに見つめていた。
「王宮の薬師たちは、希少な宝石や高価な香油ばかりを使いたがります。……道端に咲く草が、これほど繊細な知恵を秘めているとは、彼らは気づきもしないでしょう」
「植物に貴賎はありません。ただ、そこに生きようとする意志があるだけです」
ワトがそう言って微笑むと、イアナ・ヌブは「貴殿らしい」と小さく笑った。その柔らかな表情を見て、ワトはふと思い立ち、提案した。
「……イアナ・ヌブ様。この王宮の中ではなく、街の植物も見に行けませんか? 飾られた花ではなく、人々の暮らしのそばで生きている草たちの声を聞きたいんです」
高官である彼を連れ出すのは無理かもしれないと思ったが、イアナ・ヌブは少し驚いたように目を見開いた後、穏やかに頷いた。
「そうですね。……たまには『檻』の外の空気を吸うのも悪くないでしょう」
*
数日後、二人は身分を隠すための質素な外衣を纏い、王都の市場へと繰り出した。
王宮の静寂とは対照的に、街は喧騒と活気に満ちていた。色とりどりの布、香辛料の匂い、荷車を引く人々の怒鳴り声。
ワトは、家々の軒先に置かれた素焼きの鉢植えや、石畳の隙間にしがみつくように生える雑草を見つけるたび、足を止めて耳を澄ませた。
「この子は喉が渇いているみたいです。……あちらの家の裏にある木は、子供たちが登るのを喜んでいますよ」
ワトが楽しそうに話すと、イアナ・ヌブはワトが人混みに流されないよう、さりげなく背中に手を添えた。
「王宮の中にいると、こうした些細な命の営みを忘れてしまいそうになる。……ワト、貴殿と歩いていると、世界が色を取り戻していくようです」
賑わう市場の片隅、名もなき広場に一本の大きな柳の木が立っていた。
その瑞々しい葉が風に揺れるのを見て、ワトの心に、言いようのない切なさがこみ上げる。
「……あの柳。あそこに立っているだけで、周りの空気を優しくしていますね。強くて、でもどこか寂しそうで」
ワトが思わずその幹に触れようとしたとき、隣にいたイアナ・ヌブの気配が揺れた。
彼はその柳を見上げ、慈しむような、あるいは遠い過去を悔いるような瞳で目を細めた。
「柳は、水のない場所では生きられません。……けれど、自らが水となり、誰かを潤すことはできるのかもしれない」
その言葉は、誰に宛てたものだったのか。
ワトは、イアナ・ヌブの横顔に、どこかで見たことのある、あの人がいつも纏っていた「自分を犠牲にしても誰かを守ろうとする、静かな覚悟」をはっきりと見た気がした。
束の間の散策。
黄金の都の喧騒の中で、二人は王宮の高官でも癒やし手でもなく、ただの人として、静かに心を重ねていた。
*
そしてワトの楽しみは、夕刻に訪れるイアナ・ヌブとの対話の時間だった。
彼は時折、高官としての仮面を脱ぎ、ワトの隣で静かに本を読んだり、共にハーブを煎じたりした。
その時の彼は、どこかにあるはずの、静かな研究室に佇むあの人の姿に重なった。
「……不思議ですね」
ある夜、ワトは煎じたての茶を差し出しながら言った。
「こうして貴方といると、自分がどこにいるのか分からなくなる。ここが砂漠の真ん中だということも、僕が『癒やし手』だということも、全部忘れてしまいそうになるんです」
イアナ・ヌブは茶を受け取ると、その蒸気の向こうで、ワトを愛おしそうに見つめた。
「それでいいのです。……貴殿が『何者か』である必要などない。ただ、そこにいて笑ってくれるだけで救われる命が、ここにはある」
その言葉の意味を、ワトはまだ完全には理解できていなかった。
自分が救おうとしているのは、まだ見ぬ「王」であり、この国の「聖樹」であるはずだった。
しかし、イアナ・ヌブの手がワトの手に触れたとき。
彼の中に流れる、冷たくも瑞々しい「柳」の波動が流れ込んできた気がした。
そしてワトは、確信した。
自分は「王」を救うためだけに来たのではない。
この、黄金を纏った孤独な人こそ、助けを求めているのではないかと。
だが、運命は非情だった。
「イアナ・ヌブ様。……王がお呼びです」
イアナ・ヌブの側近が、緊迫した声で告げた。
それは、穏やかな日常が終わり、過酷な日々が始まる合図だった。




