第五話 王都への旅路
揺れるラクダの背の上で、ワトは何度も、自分の前を行く背中を見つめた。
白い薄衣の上から、黄金の装飾が夕陽を弾き、チリン、と涼やかな音を立てる。
その男――イアナ・ヌブの背筋の伸びた立ち姿も、風に流れる髪のひと房も、ワトにはどうしても「初めて見るもの」とは思えなかった。
記憶は砂漠の砂のように指の間から零れ落ちて、名前も、彼と過ごしたはずの場所も思い出せない。
それなのに、彼がふとした瞬間に見せる横顔や、細く長い指が手綱を握る仕草を見るたび、胸の奥が焼けるように熱くなるのだ。
(……あなたは、誰だ)
問いかけようとしても、喉の奥で声が空白になる。
――『ワト、あの人の周り、水が流れてる』
籠の中の薬草が、うっとりとしたように囁いた。
この灼熱の砂漠。水など一滴も浮いていない乾いた空気の中で、植物たちは一様に、イアナ・ヌブの方へと葉を向けている。
――『深い、深い、古い水の匂い』
――『人間じゃないみたい。でも、人間よりもずっと……「僕ら」に近い』
植物たちのささやきは、ワトの抱く違和感に形を与えていく。
イアナ・ヌブ。
王宮の最高官。
そう名乗った彼は、確かに人間としてそこに立っている。黄金の装飾は彼の権威を誇示し、使者たちは彼に絶対的な服従を誓っている。
けれど、ワトには見えていた。
彼が歩くあとには、目に見えないほど微かな「命の萌芽」が残るのを。
彼が沈黙するだけで、周囲の猛った風が、まるで主に付き従う犬のように大人しく静まるのを。
不意に、前を行くイアナ・ヌブがラクダを止め、振り返った。
「……ワト殿。疲れましたか」
その声を聞いた瞬間、ワトの思考は止まった。
低く、落ち着いていて、どこか寂しげな響き。
現代の病室で、あるいは研究室で、何度も自分を呼んでいたあの声が、そのまま目の前の男の唇から零れ落ちたのだ。
「いいえ。……大丈夫です」
ワトが短く応えると、イアナ・ヌブはわずかに瞳を細めた。
それは慈しみとも、あるいは耐えがたいほどの悲しみを堪えているようにも見えた。
「無理をすることはありません。貴殿を王都へ連れて行くのは、私のエゴでもあるのですから」
エゴ。
その言葉の意味を問う前に、イアナ・ヌブは再び前を向き、王都へと続く地平線を見据えた。
砂漠に、影が長く伸びていく。
その影は、まるで彼ら二人を一つの運命で縛り上げる、巨大な鎖のようにも見えた。
*
陽が沈むと、砂漠は一転して凍えるような冷気に支配される。
一行は岩陰に天幕を張り、小さな焚き火を囲んだ。
護衛たちが離れた場所で交代の番に就く中、火の傍らにはワトとイアナ・ヌブの二人だけが残された。
パチッ、と爆ぜる薪の音。
ワトは膝を抱え、踊る炎を見つめていた。昼間の熱気が嘘のように、指先が冷えている。
「……これを」
不意に、肩に柔らかな重みを感じた。
振り返ると、イアナ・ヌブが自分の肩に、厚手の毛織物をかけてくれたところだった。
「夜の砂漠は、貴殿が思っている以上に体力を奪います」
至近距離で響く声。
ワトは、毛織物から漂う微かな香りに息を呑んだ。
それは砂漠の土の匂いでも、王宮の香油の匂いでもない。
雨上がりの水辺のような、どこか懐かしく、清涼な木の香り。
「ありがとうございます。……イアナ・ヌブ様」
慣れない名前を口にすると、男は炎を見つめたまま、自嘲気味に口角を上げた。
「様、はよしてください。私はただの、王の影に過ぎません」
「でも、皆さんは貴方を恐れ、敬っています。……植物たちも、貴方の前では声を潜める」
ワトの言葉に、イアナ・ヌブが視線をこちらへ向けた。
火影に照らされたその瞳は、昼間よりもずっと深く、底知れない。
「貴殿には、やはり聞こえているのですね。……彼らの嘆きが」
「……はい。でも、彼らは貴方のことを、嘆いているとは言っていませんでした。ただ、『深くて、古い水の匂いがする』と」
イアナ・ヌブの手が、一瞬だけ止まった。
彼は長い指先で、首元に輝く黄金の首飾りをそっと撫でる。その仕草は、重い枷を確かめているようにも見えた。
「水、ですか。……この乾いた国で、それは何よりの贅沢だ」
彼はそれ以上、自分自身について触れようとはしなかった。
代わりに、低い声で問いかけてきた。
「ワト。……貴殿は、自分の力を恐ろしいと思ったことはありませんか」
ワトは少し考えてから、静かに首を振った。
「恐ろしいのは、人の心です。植物は、嘘を言いませんから。……でも、私のせいで誰かが傷つくのは、一番怖い」
村での出来事――毒の実を食べた少年や、自分を避ける村人たちの顔が脳裏をよぎる。
すると、イアナ・ヌブの手が、迷うように空中で止まり、そしてワトの震える肩にそっと置かれた。
温かい。
驚くほど温かくて、大きな掌。
「……貴殿は、誰も傷つけてはいない。救ったのです。それを忘れないでください」
その言葉は、まるで呪縛を解くための祈りのように聞こえた。
「私が貴殿を必要としたのは、王のためだけではありません。……貴殿のような優しい魂が、この荒れ果てた砂の中で、一人きりで磨り減っていくのを見ていられなかった。それも、真実です」
ワトの視界が、不意に滲んだ。
なぜだろう。この人に会ったのは今日が初めてのはずなのに。
その掌の重みも、自分を肯定してくれるその言葉も、ずっと、ずっと昔から待っていたもののような気がしてならない。
「あなたは……」
言いかけた言葉は、夜風にかき消された。
イアナ・ヌブは、優しく、しかしどこか突き放すような寂しさを湛えた笑みを浮かべ、手を離した。
「休みましょう。明日には、黄金の都が見えてきます」
彼は立ち上がり、夜の闇へと消えていく。
後に残されたのは、焚き火の爆ぜる音と、ワトの胸の中で激しく波打つ、正体不明の恋情に似た痛みだけだった。




