第三話 見えない悪意
朝の光は、昨日と同じように砂漠を照らしていた。
それでも、空気の感触が違う。
ワトは目を覚ました瞬間から、それを感じていた。
――『人の声が、多い』
鉢植えの低木が、小さく葉を鳴らす。
「もう起きているのか」
外はまだ静かだ。
けれど、植物たちは落ち着かない様子で、根を浅く震わせていた。
――『ささやきが聞こえる』
――『昨日の続き』
頷きながら、何も言わずに水をやる。
植物の声は嘘をつかない。
だが、人の声は、形を変える。
*
朝の市が立つ頃、ワトは薬籠を肩に、村の中心へ向かった。
その途中で村人とすれ違う。
昨日までと違うのは、目が合う瞬間、視線を逸らされる。
陽射しは熱を帯び、人の視線は冷気を孕むかのように気持ちを刺してくる。
薬草を求める声で賑わっていた通りが、ワトが足を踏み入れた途端、風が止まったように静まり返る。
母親が子供を背後に隠す布の擦れる音。
ピシャリと閉ざされる木戸の音。
それらが、まるで石を投げつけられているかのようにワトの肌を打った。
――『嫌な匂い。恐怖が、古い汗みたいにこびりついてる』
足元の草が静かに言った。
ワトは黙って、ただ前だけを見て歩く。
拒絶。
無言の「拒絶」ほど、心を抉られることはない。
――『避けてる』
道端の草が、端的に告げた。
「そうか」
否定も、肯定もしない。
ただ草の言葉を受け入れる。
長いこと、そうしてきた。
それでもワトは仕事を続ける。
助けを必要としている人がいるから。
ワトの仕事は、村人たちの体を診ること。
腹痛、咳、軽い熱。
擦り傷、火傷、捻挫。
症状に合わせて薬草を処方する。
毎日、同じことの繰り返し。
頼まれた家を一軒ずつ訪ねていく。
ただ戸を開けた家人は、ワトを見ると困惑した色を見せた。
挨拶はあるが、どこか硬い。
「……先生」
名を呼ばれるまでに、間がある。
それは自分の小屋に来る人々も同じだった。
必要最低限の言葉だけで、皆の体を診ていく。
治療を終えたあと、誰も長居をしなくなっていた。
「……王都の話、聞きましたか」
薬を渡すとき、若い女が小声で尋ねる。
「噂なら」
「やっぱり……」
女は、それ以上言わず、視線を落とした。
そして黙って、小屋を出て行く。
――『怖がっている』
蔓草が、壁際でそっとささやいた。
また別の村へ行かなくてはならないのか。
ふと考えが過ぎった。
ただどこへ行こうが同じことだと知っている。
噂は聞かずとも聞こえてくる。
耳元で囁いてくる。
何度も頭を振っても追い出すことは叶わない。
*
昼近く、井戸へ水を汲みに向かった。
近くでは、村人たちが輪になって話していた。
ワトの姿を見ると、笑い声が一瞬にして止まる。
ふと、腰掛けていた老人と目があった。
そして、彼がぽつりと言った。
「昔から、力のある者は、呼ばれる」
周囲の者が、黙って頷く。
「王の病は、重いらしい」
「別の村から祈祷師が行って、戻らなかったらしい」
話は、少しずつ形を変える。
探しているが、連れて行かれるになり、頼まれるが、命じられるになる。
その中心に、いつの間にかワトが置かれていた。
「先生が、王を呪ったのかもしれない」
「植物と話す力は、王宮にとって危険だ」
声は低く、しかし確かに広がっていく。
ワトは、聞いていないふりをする。
聞いていないのではない。
反論する言葉を、持たないだけだった。
それに反論したところで、噂は止まらない。
いつも同じだ。
*
午後、あの少年が、母に手を引かれて現れた。
昨日、治した子だ。
「……先生」
母親は、ワトの目を見ようとはしなかった。
その指先は、少年の肩を白くなるほど強く掴んでいる。
「もう大丈夫です。うちは、もう……薬はいりません。自分たちで様子を見ますから」
昨日の感謝に満ちた涙は、どこへ行ったのだろう。
今の彼女の瞳にあるのは、得体の知れない疫病を避けるような、剥き出しの警戒心だった。
――『この女の人、心臓がバクバク言ってる』
――『ワトを、悪いものだと思ってる』
足元の枯れ草が、無慈悲に真実を告げる。
ワトは、小さく頷いた。
「……そうですか。それがいいでしょう」
伸ばしかけた手を、自分の意志で殺す。
握り締めた拳の中で、行き場を失った温もりが、じりじりと焼けるように熱い。
――『ワトの手は、あの子を救ったのに』
――『人間は、命よりも形のない影を信じるんだね』
植物たちの嘆きが、自分の叫びのように聞こえて、ワトは奥歯を噛み締めた。
綺麗な瞳で、何かを訴えるように少年がワトを見つめていた。
すぐに母親に引きずられるようにして背を向けた。
――『悲しいね』
小屋の影で、草が呟く。
「……そうだな」
慣れている。いつものことだ。
砂埃の中に消えていく親子の背中を見送りながら、ワトは自分の掌を見つめる。
救うほどに遠ざけられ、癒やすほどに異物として扱われる。
自分の指先に残った少年の髪の感触を、砂漠の風にさらして消し去るように、手をかざした。
*
夕方、風が強くなり、さらに砂が舞った。
村人は家の中に篭っている。
誰も近寄らない村の境に近い岩陰で、ワトは一人、薬草を干す。
――『人は、知らないものを怖がる』
低木の声は、穏やかだった。
「知っている」
だからこそ、距離を取られることを、責める気にはなれなかった。
だが――。
――『来る』
唐突に、声が重なる。
――『足音』
――『金属』
ワトは、顔を上げる。
砂漠の向こう。
揺らぐ陽炎の中に、細い影がいくつか見えた。
まだ、はっきりとは見えない。
だが、それが噂の先であることは、確かだった。
この村で、自分を見る目が変わり始めたように――世界もまた、ゆっくりと形を変えようとしている。
ワトは、乾いた風の中で、静かに立っていた。
次回「第四話 黄金の使者」をお送りします。
更新は、来週金曜日!




