第二話 砂漠の朝
この章は、渉の最初の前世物語……
まだ植物の声がはっきりと聞き取れていた頃の話。
夜明け前の砂漠は、ひどく静かだ。
風はまだ冷たく、砂も眠っている。
太陽が顔を出す前のわずかな時間、世界は音をひそめ、植物たちだけが、目を覚ましていた。
――『ワト、起きる時間だよ』
その声で、ワトは目を開けた。
藁を編んだ寝床の上で、ゆっくりと身を起こす。
壁際には干した薬草が吊るされ、ほのかな香りが漂っていた。
「おはよう」
声に出して応えると、鉢植えの低木が葉を揺らし、満足そうに息づく。
起き上がるとすぐにワトは水袋を手に取り、ひと鉢ずつ、声を聞きながら水を分けていく。
――『昨日の水は、少し冷たかった』
――『今日は、根のほうが渇いている』
「わかってる」
誰に見せるでもない、穏やかなやり取り。
それは自分と彼らにとって、祈りよりも確かな日課だった。
太陽が昇り、砂が黄金色に染まり始めるころ、村はようやく目を覚ます。
――今日も、忙しくなりそうだ。
ワトはそう思いながら、空の籠を肩にかけ家を後にした。
村から少し離れた場所にワトの家はあった。あまり人と関わりたくはないからだ。
砂に削られた古い石壁の隙間からは、絶えず砂漠の風が入り込む。
だが、ワトにとっては、土着のしがらみに縛られた村の中の家よりも、この風通しの良さのほうが性に合っていた。
籠を担いで村の入り口を通りかかると、熱を出した子供を抱えた女が、すがるような、けれど恐れを隠しきれない目でワトを見た。ワトは足を止めず、ただ一言「夕刻に、煎じ薬を届けましょう」とだけ告げた。
母親は頭を下げると、すぐに村の中心へと向かって走っていった。
その背中を見つめながら、ワトは軽くため息をついた。
人々はワトを見つけると、道の端へ退け、頭を軽く下げた。
感謝と、ほんの少しの距離を含んだ仕草。
かつて疫病を鎮めた土地でも、枯れた井戸を指し示した村でも、最後にはこの距離が待っていた。
避けられているのは分かっている。
どの村へ行っても、それは変わらない。
しかし、そんな人々の態度を考える暇さえワトには時間が惜しいと思う。
理由は、自分自身にもわからない。
ただそう感じるだけだ。
サンダル越しに伝わる砂の熱は、時を追うごとに鋭さを増していく。
遮るもののない陽光の下、ワトは額の汗を拭うこともせず、ただひたすらに北を目指した。
大河のそばにある肥沃な草原。
その場所は薬草の宝庫だが、ワトしか知らない。
籠をおろし、さっそく草を摘み始めた。
――『ワト、その葉は痛み止め』
――『こっちは下痢に効く』
周りの草たちが、我先にと教えてくれる。
「わかってる。でもゆっくり、順番に」
草たちの声に反応しながら、作業を進める。
「これだけあれば十分だ」
摘み取った薬草を種類ごとに束ね、籠に入れた。
*
日が高くなる頃、ワトの小屋の前に、慌ただしい足音が集まった。
「先生……! 助けてください!」
村人たちはワトを先生と呼ぶ。
初めてこの村に来た日、老女が処刑されそうになるのを目にした。
理由は村長の家の垣根を枯らしたから。
この時代、理不尽なまでに簡単に人が殺される。
ワトが原因を探る手伝いをし、老女は命拾いした。
それから「先生」と呼ばれるようになった。
さて、村人たちが運んできたのは、十歳ほどの少年だった。
唇は乾き、呼吸が浅い。
額に触れると、熱がこもっている。
――『この子、苦い草を噛んだ』
ワトは一目で察すると同時に、鉢植えの植物がつぶやいた。
「この辺りで、紫の斑が入った葉はありませんか」
母親がはっとして頷く。
「水場のそばで……お腹がすいたって言って、その葉っぱの赤い実を食べて……」
案の定、少年が食べたのは毒の実。
ワトは頷き、すぐに彼を寝台へ運ばせた。
薬棚から乾燥させた根を取り出し、すり潰し、少量の水で溶く。
――『量を誤るなよ』
植物の声が、静かに告げる。
「わかってる」
独り言のように応え、ワトは慎重に少年の口元へ薬を運んだ。
細い首。喉が、かすかに動く。
しばらくして、呼吸が少しずつ深くなっていった。
「もう、大丈夫」
母親が、床に額をこすりつけるようにして深く頭を下げる。
その震える肩を見ても、ワトの心に波風は立たない。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます……」
「……礼には及びません。私はただ、草に言われた通りしただけです」
その言葉に、母親が一瞬、戸惑ったように顔を上げた。
植物と話す男。
その事実は、救われた喜びのすぐ裏側に、割り切れない不気味さを残していく表情だった。
「今日は日が落ちるまで、休ませてください。水は、少しずつ」
それだけ告げると、ワトは口を閉ざした。
必要以上に言葉は重ねない。
感謝は受け取るが、それ以上のことは望まない。
いつかこの子が大人になる頃、自分はこの村にはいないだろう。
それが、自分の立場だと理解していた。
*
昼下がり、小屋の裏で一人、簡素な食事をとる。
干し肉と薄い粥。
味気ないが、身体にはちょうどいい。
――『今日は、風が変だ』
足元の草が、囁いた。
「どこが」
――『遠い』
――『重たい』
ワトは、匙を止める。
砂漠の向こう。
見えないはずの彼方に、何かが『存在している』感覚。
それは脅威というより、まだ名のつかない違和感だった。
「……嵐、じゃないな」
――『違う。光だ』
その言葉に、胸の奥が、わずかに冷えた気がした。
*
夕刻、治療を終えた少年が、芋を持って礼を言いに来た。
どうやら起き上がれるまで回復したようだ。
「もう、赤い実、絶対に食べない」
ぎこちない笑顔に、ワトは少しだけ口元を緩める。
「それがいい」
少年の頭を優しく撫でた。
赤い顔を下に向けたまま、彼が聞いてきた。
「先生は、植物の声が聞こえるって、本当?」
勘の良い子供に嘘は言いたくない。
だが言葉ではなく黙って頷いた。
すぐに、「どうすれば聞けるの?」と訊かれた。
少年の目がキラキラと輝いていた。
「心を静かにして、植物に集中するんだ。でも誰にでも聞こえるわけじゃない」
いままで植物の声が聞こえる、という人物にワト自身、出会ったことはない。
ましてや訓練すれば聞こえるものでもないことは知っている。
それでもあえて、少年に教えた。
それはきっと自分自身への願いでもあった。
少年は真顔で植物を見つめ続けていた。
彼が帰ったあと、植物たちが次々に笑い声をあげた。
その声を聞きながら、ワトも思わず笑みが溢れた。
*
太陽が沈み、砂漠が再び静けさを取り戻す。
植物たちは、眠りにつく前のざわめきを残していた。
――『今日は、記憶に残る日だ』
「そうか?」
――『うん』
理由は告げられない。
植物たちも、まだ形を掴めていないのだろう。
ワトは小屋に戻り、夜の支度を始める。
*
数刻後。村が深い藍色の闇に包まれ、家々の明かりが消え始めた頃だった。
ふと、植物たちが一斉にざわめいた。
眠りについていたはずの彼らが、怯えたように葉を震わせている。
――『来る』
――『重い音が来る』
ワトは横になろうとした手を止め、耳を澄ませた。
サク、サク、サク。
静まり返った村の入り口から、砂を規則正しく踏み鳴らす音が聞こえてくる。
カシャン、カシャン。
暗闇を切り裂くような、冷たい金属がぶつかる音。
ワトが小屋の扉を開けると、そこには松明の火が列をなして揺れていた。
本来なら、こんな夜更けに砂漠を渡る者はいない。
村人たちが異変に気づき、一人、また一人と不安げに戸口から顔を出し始めた。
「王都帰りだ……」
誰かが息を呑む声がした。
ラクダの背に乗った荷車と、それを取り囲むように歩く金属の胸当てを着けた男たち。
松明の火が彼らの鎧を赤黒く照らし、異様な威圧感を放っている。
一行は村の中央で足を止めた。
喉を鳴らして水を飲む商人の一人が、集まってきた村人たちを見渡し、重々しく口を開いた。
「夜分に騒がせてすまない。だが、急ぎなのだ。……最近、王宮が妙に騒がしいのは知っているな?」
護衛の男が鋭い視線で周囲を制したが、商人は疲弊した様子で言葉を重ねた。
「王宮が癒やし手を探している。――【植物の声を聞く者】だそうだ」
その言葉が落ちた瞬間、夜の空気がぴんと張り詰めた。
村人たちの視線が、吸い寄せられるようにワトの小屋へと向く。
暗闇の中で、松明の光を浴びて浮き彫りになったワトは、何も言わず静かに立っていた。
「病か?」
「それとも、呪いか?」
不安げな村人の問いに、商人は首を振った。
「さあな。王が倒れたとも、聖樹が枯れたとも聞く。だが……」
――『名前が出る』
足元の草が、砂に埋もれながらも必死に囁いた。
ワトは、胸の奥に小さな重みを覚える。
「王宮の使いが、各地を回っている。条件に合う者がいれば、すぐにでも連れて来いとな。我らもその先触れだ。明日の朝には、本物の『使い』がここへ来るだろう」
護衛の男が、剣の柄に手をかけたままワトを射抜くように見た。
「望まぬなら、拒めばいい。だが――王都の名を出されて、断れる村がこの砂漠にあると思うか?」
沈黙。
冷たくなり始めた砂漠の風が、ワトの髪を揺らす。
――『行くの?』
植物の声が、闇の向こうから問いかける。
「……まだ、わからない」
それは、誰にともなく返した言葉だった。
ただ一つ確かなのは、
目覚めた時の穏やかな夜明けは、もう二度と訪れないということだけだった。
次回「第三話 見えない悪意」
来週金曜日に公開!




