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集音路渉 花守り日誌【毎金更新中】  作者: つきや
第六章 砂漠の記憶

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第二話 砂漠の朝

この章は、渉の最初の前世物語……

まだ植物の声がはっきりと聞き取れていた頃の話。

 夜明け前の砂漠は、ひどく静かだ。


 風はまだ冷たく、砂も眠っている。

 太陽が顔を出す前のわずかな時間、世界は音をひそめ、植物たちだけが、目を覚ましていた。


 ――『ワト、起きる時間だよ』


 その声で、ワトは目を開けた。


 藁を編んだ寝床の上で、ゆっくりと身を起こす。

 壁際には干した薬草が吊るされ、ほのかな香りが漂っていた。


「おはよう」


 声に出して応えると、鉢植えの低木が葉を揺らし、満足そうに息づく。


 起き上がるとすぐにワトは水袋を手に取り、ひと鉢ずつ、声を聞きながら水を分けていく。


 ――『昨日の水は、少し冷たかった』

 ――『今日は、根のほうが渇いている』


「わかってる」


 誰に見せるでもない、穏やかなやり取り。

 それは自分と彼らにとって、祈りよりも確かな日課だった。


 太陽が昇り、砂が黄金色に染まり始めるころ、村はようやく目を覚ます。


 ――今日も、忙しくなりそうだ。


 ワトはそう思いながら、空の籠を肩にかけ家を後にした。


 村から少し離れた場所にワトの家はあった。あまり人と関わりたくはないからだ。

 砂に削られた古い石壁の隙間からは、絶えず砂漠の風が入り込む。

 だが、ワトにとっては、土着のしがらみに縛られた村の中の家よりも、この風通しの良さのほうが性に合っていた。


 籠を担いで村の入り口を通りかかると、熱を出した子供を抱えた女が、すがるような、けれど恐れを隠しきれない目でワトを見た。ワトは足を止めず、ただ一言「夕刻に、煎じ薬を届けましょう」とだけ告げた。

 母親は頭を下げると、すぐに村の中心へと向かって走っていった。

 その背中を見つめながら、ワトは軽くため息をついた。


 人々はワトを見つけると、道の端へ退け、頭を軽く下げた。

 感謝と、ほんの少しの距離を含んだ仕草。


 かつて疫病を鎮めた土地でも、枯れた井戸を指し示した村でも、最後にはこの距離が待っていた。

 避けられているのは分かっている。

 どの村へ行っても、それは変わらない。


 しかし、そんな人々の態度を考える暇さえワトには時間が惜しいと思う。

 理由は、自分自身にもわからない。

 ただそう感じるだけだ。


 サンダル越しに伝わる砂の熱は、時を追うごとに鋭さを増していく。

 遮るもののない陽光の下、ワトは額の汗を拭うこともせず、ただひたすらに北を目指した。


 大河のそばにある肥沃な草原。

 その場所は薬草の宝庫だが、ワトしか知らない。


 籠をおろし、さっそく草を摘み始めた。


 ――『ワト、その葉は痛み止め』

 ――『こっちは下痢に効く』


 周りの草たちが、我先にと教えてくれる。


「わかってる。でもゆっくり、順番に」


 草たちの声に反応しながら、作業を進める。


「これだけあれば十分だ」


 摘み取った薬草を種類ごとに束ね、籠に入れた。


 *


 日が高くなる頃、ワトの小屋の前に、慌ただしい足音が集まった。


「先生……! 助けてください!」


 村人たちはワトを先生と呼ぶ。

 

 初めてこの村に来た日、老女が処刑されそうになるのを目にした。

 理由は村長の家の垣根を枯らしたから。

 

 この時代、理不尽なまでに簡単に人が殺される。

 ワトが原因を探る手伝いをし、老女は命拾いした。

 それから「先生」と呼ばれるようになった。


 さて、村人たちが運んできたのは、十歳ほどの少年だった。

 唇は乾き、呼吸が浅い。

 額に触れると、熱がこもっている。


 ――『この子、苦い草を噛んだ』


 ワトは一目で察すると同時に、鉢植えの植物がつぶやいた。


「この辺りで、紫の斑が入った葉はありませんか」


 母親がはっとして頷く。


「水場のそばで……お腹がすいたって言って、その葉っぱの赤い実を食べて……」


 案の定、少年が食べたのは毒の実。

 ワトは頷き、すぐに彼を寝台へ運ばせた。


 薬棚から乾燥させた根を取り出し、すり潰し、少量の水で溶く。


 ――『量を誤るなよ』


 植物の声が、静かに告げる。


「わかってる」


 独り言のように応え、ワトは慎重に少年の口元へ薬を運んだ。

 細い首。喉が、かすかに動く。

 しばらくして、呼吸が少しずつ深くなっていった。


「もう、大丈夫」


 母親が、床に額をこすりつけるようにして深く頭を下げる。

 その震える肩を見ても、ワトの心に波風は立たない。


「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます……」


「……礼には及びません。私はただ、草に言われた通りしただけです」


 その言葉に、母親が一瞬、戸惑ったように顔を上げた。

 植物と話す男。

 その事実は、救われた喜びのすぐ裏側に、割り切れない不気味さを残していく表情だった。


「今日は日が落ちるまで、休ませてください。水は、少しずつ」


 それだけ告げると、ワトは口を閉ざした。

 必要以上に言葉は重ねない。

 感謝は受け取るが、それ以上のことは望まない。


 いつかこの子が大人になる頃、自分はこの村にはいないだろう。

 それが、自分の立場だと理解していた。


 *


 昼下がり、小屋の裏で一人、簡素な食事をとる。

 干し肉と薄い粥。

 味気ないが、身体にはちょうどいい。


 ――『今日は、風が変だ』


 足元の草が、囁いた。


「どこが」


 ――『遠い』

 ――『重たい』


 ワトは、匙を止める。


 砂漠の向こう。

 見えないはずの彼方に、何かが『存在している』感覚。


 それは脅威というより、まだ名のつかない違和感だった。


「……嵐、じゃないな」


 ――『違う。光だ』


 その言葉に、胸の奥が、わずかに冷えた気がした。


 *


 夕刻、治療を終えた少年が、芋を持って礼を言いに来た。

 どうやら起き上がれるまで回復したようだ。


「もう、赤い実、絶対に食べない」


 ぎこちない笑顔に、ワトは少しだけ口元を緩める。


「それがいい」


 少年の頭を優しく撫でた。

 赤い顔を下に向けたまま、彼が聞いてきた。

 

「先生は、植物の声が聞こえるって、本当?」


 勘の良い子供に嘘は言いたくない。

 だが言葉ではなく黙って頷いた。


 すぐに、「どうすれば聞けるの?」と訊かれた。

 

 少年の目がキラキラと輝いていた。


「心を静かにして、植物に集中するんだ。でも誰にでも聞こえるわけじゃない」


 いままで植物の声が聞こえる、という人物にワト自身、出会ったことはない。

 ましてや訓練すれば聞こえるものでもないことは知っている。

 それでもあえて、少年に教えた。

 それはきっと自分自身への願いでもあった。


 少年は真顔で植物を見つめ続けていた。


 彼が帰ったあと、植物たちが次々に笑い声をあげた。

 その声を聞きながら、ワトも思わず笑みが溢れた。


 *


 太陽が沈み、砂漠が再び静けさを取り戻す。


 植物たちは、眠りにつく前のざわめきを残していた。


 ――『今日は、記憶に残る日だ』


「そうか?」


 ――『うん』


 理由は告げられない。

 植物たちも、まだ形を掴めていないのだろう。


 ワトは小屋に戻り、夜の支度を始める。


 *


 数刻後。村が深い藍色の闇に包まれ、家々の明かりが消え始めた頃だった。

 ふと、植物たちが一斉にざわめいた。

 

 眠りについていたはずの彼らが、怯えたように葉を震わせている。

 

 ――『来る』

 ――『重い音が来る』

 

 ワトは横になろうとした手を止め、耳を澄ませた。


 サク、サク、サク。

 

 静まり返った村の入り口から、砂を規則正しく踏み鳴らす音が聞こえてくる。

 

 カシャン、カシャン。

 

 暗闇を切り裂くような、冷たい金属がぶつかる音。

 

 ワトが小屋の扉を開けると、そこには松明の火が列をなして揺れていた。

 本来なら、こんな夜更けに砂漠を渡る者はいない。

 村人たちが異変に気づき、一人、また一人と不安げに戸口から顔を出し始めた。

 

「王都帰りだ……」

 

 誰かが息を呑む声がした。

 

 ラクダの背に乗った荷車と、それを取り囲むように歩く金属の胸当てを着けた男たち。

 松明の火が彼らの鎧を赤黒く照らし、異様な威圧感を放っている。

 一行は村の中央で足を止めた。

 

 喉を鳴らして水を飲む商人の一人が、集まってきた村人たちを見渡し、重々しく口を開いた。


「夜分に騒がせてすまない。だが、急ぎなのだ。……最近、王宮が妙に騒がしいのは知っているな?」


 護衛の男が鋭い視線で周囲を制したが、商人は疲弊した様子で言葉を重ねた。

 

「王宮が癒やし手を探している。――【植物の声を聞く者】だそうだ」

 

 その言葉が落ちた瞬間、夜の空気がぴんと張り詰めた。

 村人たちの視線が、吸い寄せられるようにワトの小屋へと向く。

 暗闇の中で、松明の光を浴びて浮き彫りになったワトは、何も言わず静かに立っていた。

 

「病か?」

「それとも、呪いか?」

 

 不安げな村人の問いに、商人は首を振った。

 

「さあな。王が倒れたとも、聖樹が枯れたとも聞く。だが……」

 

 ――『名前が出る』

 

 足元の草が、砂に埋もれながらも必死に囁いた。

 ワトは、胸の奥に小さな重みを覚える。

 

「王宮の使いが、各地を回っている。条件に合う者がいれば、すぐにでも連れて来いとな。我らもその先触れだ。明日の朝には、本物の『使い』がここへ来るだろう」

 

 護衛の男が、剣の柄に手をかけたままワトを射抜くように見た。

 

「望まぬなら、拒めばいい。だが――王都の名を出されて、断れる村がこの砂漠にあると思うか?」

 

 沈黙。

 冷たくなり始めた砂漠の風が、ワトの髪を揺らす。

 

 ――『行くの?』

 

 植物の声が、闇の向こうから問いかける。

 

「……まだ、わからない」

 

 それは、誰にともなく返した言葉だった。

 

 ただ一つ確かなのは、

 目覚めた時の穏やかな夜明けは、もう二度と訪れないということだけだった。

次回「第三話 見えない悪意」

来週金曜日に公開!

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