第十三話 昏睡
◆柳教授視点◆
その日の空は、薄く濁った灰色に染められていた。光を拒むように重く垂れこめた雲が、冬の訪れを告げる冷たい風を地上へ押しつけてくる。
「……寒いですね」
息が白く揺れた。隣を歩く月魄楓が、両手をポケットに突っ込んだまま肩をすくめる。
「もう師走ですからね、楓くん」
柳緑水は、腕に抱えた鉢植えを丁寧に持ち直した。普通の観葉植物に擬態したその鉢には、フウの「本体」が植わっている。細い枝先に宿る透き通るような緑の葉は、主の意識を反映して微かに波打っていた。
古都大学で渉が倒れた直後、フウは自ら「枝分け身」を解き、この本体へと意識を引き揚げた。
『今の渉は、いつ消えちゃうか分からないくらい透き通ってる。……あたし、本気でそばにいないと、渉を繋ぎ止めておけない』
泣き出しそうな声でそう告げた彼女は、以来、自在に動き回れる少女の姿を捨てた。すべての霊素を渉の「生」を維持するための共鳴に注ぎ込み、ただの一鉢の植物として、彼の傍らで静かに呼吸を合わせる道を選んだのだ。
「ねぇ博士。あたし、やっぱり渉のそばがいい。ひとりは嫌なの」
「分かっています。だから、こうして連れてきたでしょう」
フウは頷く代わりに、葉をふるりと震わせた。
渉が古都大学の研究室で倒れ、東京の大学病院へ極秘搬送されてから、もう十日が過ぎようとしていた。
表向きは高度医療を担う大病院だが、渉が収容されている特別区画へは、重厚な認証ゲートと守衛を三度も抜けねば辿り着けない。そこは「人ならざる事象」が絡んだ症例を扱う、特殊な隔離病棟だった。
病室の重い扉が開く。
無機質な廊下とは対照的に、室内は淡い光と温かな空気に満たされていた。ベッドに横たわる渉は、深い眠りに沈んだまま、穏やかなリズムで呼吸を繰り返している。
「……目覚める気配は、ありませんね」
柳は枕元の台へ、フウの鉢植えをそっと置いた。フウの葉がひらりと揺れ、慈しむように渉の方へ向きを変える。
そこへ、白衣を纏った担当医が静かに入室してきた。
「柳教授、少しよろしいですか」
「ええ、構いません。……脳波のデータは?」
柳と楓、そして医師はベッドから離れた壁際へ移動し、声を潜めた。医師はカルテを抱えたまま、不可解なものを見るような目で眉を寄せる。
「依然として、通常の昏睡とは明らかに異なるパターンを示しています。……教授、念のため再確認させてください。あの時、現場の植物――『雪幻桃』に暴走の兆候はあったのですか?」
「暴走……というよりは、極度の『変調』と言うべきでしょうか」
柳は慎重に言葉を選んだ。「神核接合による霊素の逆流」などという真実を、近代医学の徒に語ったところで混乱を招くだけだ。
「寺角教授の報告にもあった通り、ご本人に外傷はありません。しかし、細胞レベルで莫大なエネルギーが通り抜けたような痕跡が見受けられる。医学的には説明がつかないのです」
「集音路くんは、非常に感受性が強い。回復には相応の時間が必要なのでしょう。焦らず見守りましょう」
柳が穏やかな笑みで会話を打ち切ると、医師は納得しきれない様子ながらも、一礼して退出していった。静寂が戻った病室で、機械の律動音だけが響く。
「……博士」
楓が、絞り出すような声で呟いた。紅い瞳が、迷子のような不安を湛えて揺れている。
「本当は、渉に何が起きているのか……博士は知っているんですよね。教えてください」
「……そうですね。彼の魂が、今どこにあるのか。ある程度の推測はついています」
「だったら……!」
そっと手をあげ、彼の言葉を制した。
「ですが、楓くん。それは君が背負うべき重荷ではありません。集音路くんは選ばれ、そして自ら選んだ道の果てです。必ず意味はあります」
「意味なんかいらない。……渉が目を覚まさないなら、そんなの……」
楓は唇を噛み、顔を背けた。騎士としての責任。王の欠片を守りきれなかったという自責。柳はその肩にそっと手を置こうとしたが、楓は「風に当たってきます」と短く告げ、逃げるように部屋を去った。
残されたのは、柳と、渉に寄り添うフウだけだ。
「博士……さっき強気なこと言ったけど、渉、本当に大丈夫だよね?」
フウの葉先が不安げにしおれる。
「ええ。今はただ、彼が自分自身の力で『こちら側』へ戻ってくるのを待つだけです。……ただ、フウ。金城光一は、すでに確信したでしょう。集音路くんが《欠片》を宿していることを」
フウの葉が大きく震える。
「じゃあ……渉が狙われるの?」
「ええ。相手が精霊ならば尚更、その力は喉から手が出るほど欲しいはず。……そしてフウ、あなたの自身もまた、彼らにとっては重要な標的となる」
「……あたし、守る。絶対に」
葉が力強く脈動した。柳はその決意を見届け、満足げに頷く。
――その時、壁の端末が緑色に点滅し、電子音が鳴った。
『柳教授。資研課から至急の連絡です。至急、応答願います』
「……資研課、ですか。あちらも動き出しましたか」
柳は眼鏡の位置を直し、背広の袖を整える。
「フウ。私はしばし席を外します。ここを頼みますよ」
「うん。博士、行ってきて」
柳が扉へ歩み寄った瞬間、病室の奥から、冷たい気配が微かな風のように触れた。
それは警告か、あるいは招かれざる視線か。
(……金城か。それとも、別の影か)
柳は振り返ることなく、静かに廊下へと歩み去った。その後ろ姿は、これから始まる「争い」を見据えているかのようだった。
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