第十一話 搬送
◆颯汰視点◆
救急車の赤い光が、研究棟の壁を断続的に照らしていた。その明滅が、恐怖を何度も胸に押しつけてくるようだった。
渉先輩はストレッチャーに横たえられ、酸素マスクをつけたまま運び出されていく。力なく揺れる腕。呼びかけても、まぶたが震えることさえない。
「どなたか、こちらに!」
救急隊員の声に、颯汰は条件反射で駆け寄った。そのすぐ後ろで、瑠奈が別の隊員に支えられているのが目に入る。
「瑠奈!? 大丈夫か――」
答えの代わりに、彼女の唇が激しく震えた。顔は蒼白で、まるで血の気がすべて失せたようだった。
「……渉さんが……倒れたの見て……息が……っ……」
途切れ途切れの声。ショックによる過呼吸だと悟った瞬間、胸が締めつけられた。瑠奈はなんとか自力で歩けるものの、処置が必要だと判断され、渉先輩と同じ救急車に収容されることになった。
「颯汰くん、先に二人に付き添っておくれ。後から追いかけるさかい……。フウちゃんは、こっちにおった方がええやろ」
寺角教授が、重い口調で指示を出す。
「……分かりました。教授、フウのこと、お願いします」
フウは小さく首をすくめ、不安げに手を握りしめていた。離れるのが怖くてたまらない、そんな瞳だった。
「大丈夫。心配しなくてもいいから」
そう言った瞬間、自分の胸がわずかに痛んだ。――「大丈夫」と言ってほしいのは、本当は自分の方だ。
案内に従って、救急車の後部に乗り込む。
隣に座った瑠奈の背中にそっと手を回すと、彼女の体がびくんと震えた。
「大丈夫。大丈夫だから、俺に合わせて息を吐いて。フゥー……」
焦る気持ちを抑え、わざと深く、長い息を吐いて聞かせる。手のひらを通じて、彼女の微かな震えが伝わってくる。過呼吸の症状か、座席の端を掴んだ彼女の指先が白く強張っていた。
「――っ、ひっ……、そう、たくん……」
「わかってる。もう大丈夫。渉先輩も、瑠奈も、俺がついてる。だから、今は息だけ。俺の声だけを聞いて」
救急車のドアが金属音を立てて閉まり、サイレンが轟く。
先輩の胸が、規則正しく上下している。それだけが、唯一の救いだった。
(……頼むから、目を開けてくれ)
車は山道を下りはじめ、大きく揺れた。先輩の手の甲を、壊れ物を扱うようにそっと握る。
「……渉先輩」
小さく名前を呼んだが、やはり返事はなかった。
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◆楓視点◆
ストレッチャーの車輪音が廊下の奥へ吸い込まれ、サイレンの音も次第に遠のいていく。静寂が戻った研究室は、まるで一つの時代が終わった後のようだった。
床に散乱した資料や器具。あの嵐のような「王の力」が残していった爪痕。
雪幻桃の霊素は安定したが、部屋全体の空気は今も不気味にざわついている。この揺らぎに気づけるのは、精霊の血を引く者か、同族だけだ。
窓際で外を見つめるフウは、普段の騒がしさが嘘のように黙っていた。
「……フウ」
声をかけると、ゆっくり振り向いた彼女の瞳が揺れた。
「渉、死んじゃう……?」
胸がひやりとした。フウはこういう所だけ、昔と変わらない。王の側にいたはずなのに、肝心な部分ではあまりに幼い。
「死なない。だが、無事には済まないだろうな」
フウが胸元を押さえ、その姿はまるで必死に核の震えを抑えているかのようだった。
寺角教授が、研究端末の前に腰を落とした。深い諦めが滲んだ横顔。
「……教授、さっきの現象は――」
「楓くん。君は本当のことを知っとるんやろ。フウちゃんも、や」
教授は眼鏡を外し、机に置いた。すべてを察した者の貌だ。
「いま、この場におるんは我々だけや。楓くん……君は古都紅葉の精霊。さっきのは、『神核接合』と違いまっか?」
フウがびくりと肩を揺らす。
「えっ、古都紅葉の精霊って――やっぱり本物のカエデ? 王の友達?!」
「フウ……お前は……」
教授が息を呑む。秘密の守り方を知らないのは、相変わらずだ。
「……フウ、やっぱり君は『記憶樹種』か」
「あっ……ごめん、つい」
「ちょ、ちょっと待ちよし。王の友達って……楓くん、君は一体……」
小さく息を吐き、教授を正面から見返した。
「ええ。僕は精霊王を守る騎士でした。そして――王とは幼馴染でもあった」
「騎士、幼馴染、精霊王……。御伽話や思うてたことが、本当やったんですな。……それが今は渉くん……というわけですか?」
「違う! 渉は違うもん!」
フウが悲鳴のような声を上げた。
「……渉……さんは、精霊王の『欠片』を持っているだけです」
「欠片……? 彼が王やないなら、本物の王様はどこにおるんです?」
「彼は、欠片を持っている自覚さえありません。そして王は――我々の知らない場所で、今も眠っています」
教授はしばらく沈黙し、ふっと長い息を吐いた。
「……君ら精霊がそこまで話してくれるんは……事情があるんやね。楓くん、話してくれておおきに。……これは、柳先生にも伝えてよろしいんやろか?」
「……柳博士は、もう知ってる」
フウがぼそっと呟いた。
「え?」
「あたしの本体、いまも柳博士の研究室にあるもん。だから全部、知ってる」
寺角教授は静かに立ち上がり、雪幻桃のケースを見つめた。
「渉くん……目を覚ましてくれはるやろか。あの力は、人の身にはあまりに強すぎる」
教授の声は、微かに震えていた。
「……僕にも分かりません」
フウが涙を浮かべながら尋ねてくる。
「カエデ……どうしよう。渉が……思い出せなくなっちゃったら……?」
胸の奥が鈍く疼いた。――もう「欠落」は始まっている。
力を使った直後、彼は颯汰とフウの名前が出てこなかった。
精霊王の力は強大すぎる。人の器では、存在そのものが損なわれてしまう。
「……渉は戻る。お前がそばにいる限りな」
フウはかすかに笑ったが、涙は止まらなかった。
ふと気づくと、寺角教授はすでに部屋を出ていた。
残されたのは、雪幻桃の淡い光と、泣きじゃくる少女。
そして――胸の奥で形を成し始めている、不穏な確信だけだった。




