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第2話 「感情がない」私を好きだという人


 私は完全に固まった。冗談を言っているようには見えない。


「……私といても、面白くないと思いますよ。感情がない女だそうですから」


 つい自嘲気味にこぼした言葉に、アーサル様は真剣な眼差しを向けた。


「私は一度もそう思ったことはないよ」


 思わず顔を上げた。


「……なぜです?」


「マリア嬢は覚えていないかな。三年ほど前、一緒に王都の施療院を視察したことがあったでしょ?」


「三年前……」


 記憶を辿る。

 確かに、王都の貧しい人々を診る施療院へ、寄付をしている貴族たちと一緒に視察へ行ったことがある。


「覚えています。でも、あの時はほとんどお話ししていませんよね?」


「うん。だから君は知らないと思う」


 アーサル様は懐かしむように目を細めた。


「あの日、視察が終わった後のことだよ。施療院の中庭で、小さな女の子が転んだでしょ」


「あ……」


 そこで、ぼんやりと記憶が蘇った。

 施療院で療養している母親を見舞いに来ていた、六つか七つくらいの女の子だった。

 その手には、ここへ来る途中で摘んだのだろう、小さな野花の束が大事そうに握られていた。

 母親に会えるのが嬉しかったのか、女の子は花束を抱えたまま中庭を駆けていた。

 けれど石につまずき、派手に転んでしまった。


『いたい……』


 擦りむいた膝から血が滲み、女の子の目にみるみる涙が溜まっていく。

 私は考えるより先に、その場へしゃがみ込んでいた。


『見せて。大丈夫?』


『だ、大丈夫……』


 ハンカチを取り出し、汚れた膝をそっと拭いた。

 ドレスの裾が地面についてしまったけれど、その時は気にもならなかった。

 けれど、女の子が本当に泣きそうになったのは、膝の傷を見た時ではなかった。


『お花……』


 転んだ拍子に、小さな花束が潰れていた。


『お母さんにあげようと思ったのに……』


 ぽろぽろと涙が落ちる。

 私は潰れてしまった花を見て、それから自分の髪に手を伸ばした。

 今日のために用意された、生花の髪飾り。

 私はそれを外し、女の子に手渡した。


『では、これをあげる』


 女の子が目を丸くした。


『でも、それ、お姉ちゃんの……』


『私はもう今日のお役目を終えたから、外してもいいのよ』


 私は女の子が持ってきていた潰れていない花を集め、その生花の花飾りを真ん中へ差し込んだ。


『あなたは今日、お母様にお花を渡したいのでしょう?』


『……うん』


『なら、こっちの方がお花も喜ぶわ』


 女の子はしばらく花束を見つめていた。

 やがて、涙で濡れた顔いっぱいに笑みを浮かべる。


『ありがとう、お姉ちゃん!』


『どういたしまして』


 その笑顔につられて、私も笑った。


「……あれを見ていらしたのですか?」


 思わず尋ねると、アーサル様は頷いた。


「うん。少し離れたところからね」


「でしたら、声をかけてくださればよかったのに」


「声をかけたら、あの時の君はいなくなってしまいそうだったから」


「……どういう意味です?」


「あの時の君は、伯爵令嬢ではなかったから」


「私は伯爵令嬢ですが」


「ふふっ。そういう意味じゃないよ」


 アーサル様は優しく笑った。


「周りからどう見られるかなんて、あの時は考えていなかったんじゃないかな?」


 否定できなかった。

 あの子が転んだから駆け寄った。

 花が潰れて悲しんでいたから、自分の花を渡した。

 それだけだった。


「誰も見ていないと思っていたのに、ドレスが汚れるのも気にせずその場に膝をついて、自分の花まであげていた」


 アーサル様は少し照れたように笑った。


「それで、あの子が笑ったら、君もすごく嬉しそうに笑ったんだ」


「……」


「たぶん、あの時だよ」


 胸が小さく鳴る。


「何が……ですか?」


「私が、マリア嬢を好きになったのは」


 息を呑んだ。


「そんな前から……?」


「うん。でも君には婚約者がいたからね。気持ちを伝えるつもりはなかったよ」


 そしてアーサル様は、少しだけ困ったように笑った。


「だから、ディグセンが君に『感情がない』と言った時は、本当に不思議だった」


「……不思議?」


「この人は今まで、マリア嬢の何を見ていたんだろうって」


 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。


「私は、君に感情がないなんて思ったことは一度もない」


 アーサル様は、優しい目で私を見ていた。


「むしろ、人一倍優しくて、ちゃんと笑う人だって知ってる」



 その日を境に、アーサル様はもう好意を隠さなくなった。


「マリア嬢はどう思う?」


「君はどうしたい?」


 アーサル様はいつも、私の考えを尋ねた。仕事のこと、何を食べるか、どこへ行くか。

 相手が望むものに合わせるのが良い令嬢だと思っていた私にとって、それはひどく戸惑うことだった。


 ある日、カフェで二種類のケーキを勧められた時。

 「どちらでも構いません」と言う私に、彼は優しく待ってくれた。


「私は、マリア嬢が本当に食べたい方を知りたいんだけどな」


「……では、イチゴのタルトを」


 私が選んだものを、彼はいつも嬉しそうに受け入れてくれる。

 少しずつ、私は自分の希望を口にするようになった。


 ある仕事が立て込んでいた日。疲れがピークに達していた私を見て、彼は「今日は帰ろうか?」と気遣ってくれた。

 いつもなら「はい」と答えて休むべき場面だ。それなのに。


「……嫌です」


 自分の口から出た言葉に、私が一番驚いた。


「今日は、あなたと一緒にいたいです。疲れてはいます……でも、せっかく会える日だったのですから……」


「私だって……わがままくらい言いたい時もあるんです」


 完璧な貴族令嬢なら絶対に言わない言葉。

 けれど、アーサル様は心底嬉しそうに笑って、私を見つめた。


「うん。言っていいんだよ」


 思ってもいなかった言葉に、私は俯いた。


「……困りませんか?」


「困らないよ。疲れたなら疲れたって言ってほしいし、嫌なことは嫌だって言ってほしい。会いたい時には、会いたいって言ってくれたら嬉しいな」


「でも、それは……わがままでは?」


「少しくらい、わがままでいいじゃないか」


 アーサル様は柔らかく笑った。


「マリア嬢は、今までずっと我慢してきたんじゃないかい? 私の前でまで我慢しなくていいよ」


 その言葉に、胸の奥がきゅっとなる。

 寂しい、嬉しい、疲れた、もっと一緒にいたい。

 口にしたら誰かを困らせると思っていた感情たちを、この人は否定しない。


「……では、今日はもう少しだけ一緒にいてください」


「うん。私も、君と一緒にいたい」


 その日、私は生まれて初めて、自分のわがままを少しだけ好きになれた。



 婚約破棄から半年ほどが過ぎた頃。


「ディグセン・ワポーレ様がお見えです」という執事の言葉に、私は手にしていた書類から顔を上げた。


「……ディグセン様が?」


「はい。どうしてもマリア様とお話がしたいと」


 保証を打ち切って以降、ワポーレ侯爵家はいくつもの事業を手放し、ティリエルも彼のもとを去ったと聞いている。何の用かは分からないが、それ以上の近況は知らなかったし、知ろうとも思わなかった。


「分かりました。応接室へ」


 しばらくして応接室へ向かうと、そこには以前よりずっと疲れた顔をしたディグセンが座っていた。


「久しぶりだな、マリア」


「……マリア嬢です」


「あ……ああ。そうだったな」


 以前ならそれだけで苛立った顔をしただろう彼は、今日は力なく目を伏せただけだった。


「それで、本日はどのようなご用件でしょう?」


「その……」


 とディグセンはしばらく言葉を探していたが、やがて意を決したように顔を上げた。


「俺たち、やり直せないか? 婚約を、もう一度結び直したいんだ」


 一瞬、何を言われたのか理解できず「どうしてです?」と問い返した。


 ディグセンは苦しそうに顔を歪めた。


「俺は間違っていた。ティリエルとは……もう終わった。それに家のこともある。父上とも何度も話したんだが、あの時、俺があんなことをしなければこんなことにはならなかったと……」


 私が黙っていると、彼は慌てて首を振った。どうやら私の顔に『やはり金のためか』と出ていたらしい。以前の私なら、そんなことはなかったのに。


「違う! 金のためだけじゃない! ティリエルがいなくなって家もこんなことになり、それで初めて分かったんだ。君がどれだけ俺を支えてくれていたか……」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に今まで感じたことのない何かが湧き上がった。


「君はいつだって俺に合わせて文句も言わず、家同士のことも考えて、困った時には助けてくれた」


 彼は必死に言葉を続ける。


「失ってから分かったんだ。俺には君が必要だった」


 ――嫌だ。


 唐突に、そう思った。この人が嫌だ。声や顔が嫌なのではない。今、この人が口にした言葉そのものが、たまらなく嫌だった。


「……それは、私を必要としているのですか? それとも、ご自分に都合よく合わせてくれる婚約者が必要なのですか?」


「な……」


「今おっしゃったことは、すべてディグセン様にとって都合が良かったことばかりですね」


「そんなつもりじゃ……!」


 と彼が言葉を詰まらせる。


「では、教えてください」


 私は初めて、彼から目を逸らさずに問いかけた。


「私は何が好きですか? どんなものを食べたいと思い、どこへ行きたいと思い、何をしている時が楽しいのか。私が嫌いなものは? 私が疲れている時、どんな顔をするのかご存じですか?」


 ディグセンは何も答えなかった。不思議だった。以前ならこの沈黙を見て、私がもっと婚約者らしく振る舞って笑っていればと自分を責め、胸を痛めたかもしれない。けれど今は違った。


「ディグセン様は以前、私に『感情がない』とおっしゃいましたよね。違います。あなたが、私の感情を知ろうとしなかっただけです」


「マリア……」


「マリア嬢です」


「……マリア嬢」


 彼は悔しそうに唇を噛んだ。


「でも、今の君は違うじゃないか。あの頃よりずっと喋るし、自分の意見も言う。そんなふうに怒った顔だって、昔は見たことがなかった」


 そして、何かに気づいたように言った。


「アーサル公爵のせいなのか? 公爵が君に何か吹き込んだんじゃないのか? 君は以前、こんな女じゃ――」


 胸の奥で、何かがすっと冷えた。


「それ以上、アーサル様を悪く言うことは許しません」

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