第3話 私だって、わがままくらい言いたい
自分でも驚くほど強い声が出た。ディグセンが目を見開く。私自身も、誰かに対してこんなにはっきり腹を立てたのは初めてかもしれないと驚いていた。
「アーサル様は、私に何かを押しつけたことなど一度もありません。『君はどうしたい?』と、私自身が何を望んでいるのかをずっと聞いてくださいました」
だから、今なら分かる。自分の胸に問いかければ、答えは驚くほど簡単だった。
「私は、あなたとはやり直したくありません。二度と婚約したくありません」
「マリア嬢……どうして……」
家同士の関係が戻ったとしても、あなたの家が以前のように裕福になったとしても、ティリエル様とのことがなかったことになったとしても、私はあなたを選ばない。
まだ言い足りなかった。今までの私なら、相手を傷つけないよう、伯爵令嬢としての品位を失わないようここで終わらせただろう。けれど、今日はそれでは嫌だった。本当に分からないという顔をしている彼を見て、胸の中にあった感情の名前がはっきりと分かった。
「たぶん――私は今、あなたが嫌いなのだと思います」
ディグセンの顔が固まった。誰かを嫌いだなんて口にしたのは、生まれて初めてのことだった。
「そんな……」
「以前、あなたは私に感情がないとおっしゃいましたね」
私は少しだけ笑って告げた。
「どうやら、ちゃんとあったようです。あなたを嫌だと思う感情も含めて」
「待ってくれ、マリア嬢。俺は本当に後悔しているんだ」
「そうでしょうね」
あまりにもあっさり答えたせいか、ディグセンが目を瞬く。
「ティリエル様には去られ、家は傾き、失ったものがあまりにも大きかった。後悔するには十分だと思います」
「違う! そういう意味じゃない! 君を手放したことを後悔しているんだ」
「なぜですか? 私がどれだけあなたを支えていたか分かったから、ですか?」
私が先回りして尋ねると、彼は言葉に詰まった。自分でも驚くほど冷たい声が出たと思う。
「私があなたに合わせ、文句も言わず、家を助けたこと。結局、あなたが惜しんでいるのは私ではなく、『あなたにとって都合の良かった私』なのでしょう?」
「そんなことは……」
顔を歪める彼を、私は真っ直ぐに見据えた。
「では、今の私を、あなたは好きですか? 自分の意見を持ち、嫌なことには嫌だと言い、あなたに合わせるためだけに希望を捨てたりしない、今の私を」
一歩も譲らずに続ける。
「あなたが求めているような、何を言っても黙って受け入れるマリアはもういません」
「……昔の君なら、俺をこんなふうに拒んだりしなかった」
ディグセンは苦しそうに俯いた。
「ええ、変わりました。昔の私なら、侯爵家との関係を考えて、もう一度婚約することが正しいのだと自分に言い聞かせたかもしれません。だからこそ、私は昔の私には戻りたくないのです」
胸の中にはもう何の迷いもなかった。自分の中に生まれた感情を、隠すつもりもない。
ディグセンの顔から血の気が引くのを見ながら、私ははっきりと言い切った。
「もうあなたに選んでいただきたいとは思いません。私が、あなたを選ばないのです」
しんとした応接室に、自分の声だけが残る。これ以上、条件を並べ立てて、一つずつ否定する必要すらなかった。
「お帰りください、ディグセン様」
ディグセンは何かを言おうとして口を開き、けれど声にはならなかった。
伏せられた目の端が、わずかに赤くなっている。
それでも涙を落とすことはなく、彼は唇を噛んだまま、掠れた声を絞り出した。
「……本当に、もう駄目なのか?」
「はい。あなたとの婚約がなくなったことを、今では心から良かったと思っています」
即答した私に、ディグセンはもう何も言えなかった。しばらく立ち尽くしたあと、俯いたまま応接室を出ていく。
重い扉が閉じる音を聞きながら、私は胸の奥に奇妙な軽さを感じていた。
胸が少し速く脈打っている。怒った。嫌悪した。そして、自分の意思で人を拒絶した。以前ならこんな感情を抱くこと自体をみっともないと思ったかもしれないが、今は不思議とそう思わなかった。
どうして今になって、あれほどはっきりと彼を嫌だと思えたのだろう。
考えた時、真っ先に浮かんだのはアーサル様の顔だった。
「……あの方を好きになったから、でしょうか」
思わず小さく呟く。
あの人と一緒にいるようになって、嬉しいと思うことが増え、会いたいと思うようになった。寂しい、疲れた、もっと一緒にいたいと言えるようになった。大切にされることを知り、自分がどう扱われたいのかを知ったから、大切にしてくれない人を嫌だと思えるようになったのだ。
アーサル様が私に感情を与えてくれたわけではない。きっとそれはずっとここにあって、私が名前をつけることを許してこなかっただけ。
嬉しい、寂しい、会いたい、嫌だ、好き。今ならそのどれもが私自身なのだと思える。
最後に浮かんだ一つの言葉に、顔が少し熱くなった。
「……会いたい」
今日はアーサル様と会う約束の日ではない。それでも私は彼に会いたくて、以前なら絶対にしなかったことをした。自分から使いを出したのだ。
『もしお時間があるなら、今日お会いしたいです』
たったそれだけの伝言を添えて。
ほどなくして、アーサル様から返事が届いた。
『もちろん。私も会いたかった』
短い言葉なのに、胸の奥がふわりと温かくなる。
以前の私なら、用もないのに会いたいなどと言えなかった。それでも今は、自分の気持ちを口にしたことが、少しだけ誇らしかった。むしろ、会いたい人に会いたいと言えることが、こんなにも嬉しいのだと初めて知った。
*
それから半年後。
私はアーサル様から正式なプロポーズを受けた。けれど、すぐには頷けなかった。
「一つだけ、確認してもよろしいですか? 私は『完璧な公爵夫人』にはなれないかもしれません。伯爵家の仕事も続けたいですし、疲れたら休みたい日もあります。……たまには、わがままも言います」
アーサル様は急かさず、最後まで私の言葉を聞いていた。
そして、優しく頷く。
「うん。仕事は続けたいんだね」
「……はい」
「疲れた日は休みたい」
「はい」
「それから、たまには私にわがままも言いたい」
最後の一つを改めて言われ、少し恥ずかしくなった。
「……そうです」
「分かった」
アーサル様は笑った。
「じゃあ、そうしよう」
あまりにも簡単に言われて、私は拍子抜けする。
「それだけ……ですか?」
「それだけだよ。君がそう生きたいなら、私はそれを大事にしたい」
「ですが、公爵夫人になる女性ですよ?」
「うん。でも、公爵夫人になる前に、君はマリア嬢でしょ?」
息を呑む。
「私は『公爵夫人という役目を完璧にこなしてくれる女性』と結婚したいわけじゃないよ」
アーサル様は、私だけを見ていた。
「仕事をしたい君も、疲れて休みたい君も、たまにはわがままを言いたい君も、全部マリア嬢だからね。私は、その君と一緒に生きていきたいんだ」
貴族の結婚に愛なんて必要ない。そうやって生きていくのだと思っていた。
以前の私なら、公爵家にとって何が一番正しいかを考えて答えを出していただろう。
けれど今は違う。
私は、自分がどうしたいのかを知っている。
仕事も続けたい。疲れた日は休みたい。時にはわがままも言いたい。
そして何より――この人と一緒にいたい。
「では――」
私はそっと、その大きくて温かな手を握り返した。
「少し『わがままな妻』でもよろしければ、どうかよろしくお願いいたします」
「大歓迎だよ。これから君のわがままを一番近くで聞けるなんて、私は幸せ者だね」
嬉しそうに笑う彼を見て、私も思わず声に出して笑ってしまった。
完璧な令嬢の微笑みではない、ただ嬉しいからこぼれた自然な笑顔。
「アーサル様。明日は仕事を休みたいです。それから……またあの店のイチゴのタルトを食べに行きたいです。二つ食べても?」
「もちろん。じゃあ明日は仕事はしない日にしようか。タルトを二つ食べて、君が行きたいところに行こう」
「……本当に私を甘やかしますね」
「嫌かい?」
「いいえ。……でも困りました。こんな幸せを知ったら、もう以前の私には戻れそうにありません」
「戻らなくていいよ。これからは、ありのままの君でいい。私はその隣にいつもいるから」
こんなにも甘やかされたら、もう我慢ばかりしていた頃には本当に戻れそうにない。
感情がないと言われていた私。
けれど私はずっと、こういう温かい幸せが欲しかったのだと気が付いた。




