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矛盾

 その夜から、彼女はよく笑うようになった。

少しだけ外にも出るようになった。

コンビニで自分の食べたいものを選ぶようになった。

変わっていく。少しずつ。確実に。

それは本来、喜ぶべきことだった。

なのに、俺の中には別の感情も生まれていた。


 彼女が回復していく理由が、俺だなんて思えない。

でも、彼女が今ここにいる理由は、俺であってほしかった。

矛盾していた。自分でも気づいていた。

回復してくれたら嬉しい。

そのはずなのに、回復の先に“俺がいなくてもいい彼女”が立ち上がってくるのが、少しだけ怖かった。


 ある日、彼女が新しい服を買った。

鏡の前で軽く回って、「これ、どう?」と聞く。

普通の光景だった。どこにでもある、ただの日常。

けれどそれを見ていると、胸の奥にざらつくものがあった。

違う、と思った。

“俺がいなくても生きていける顔”をしていた。

その事実が、怖かった。


夜、缶チューハイを開ける音がやけに響いた。

彼女は隣でスマホを見ている。画面に知らない名前。

笑っている。軽く。楽しそうに。


「……誰」

気づいたら聞いていた。彼女は顔を上げる。

「大学の友達」

それだけだった。

何の悪気もない声。胸の奥がゆっくり冷えていく。


ああ、まずいな、と思った。

もう彼女は、俺がいなくても笑える。

俺がいなくても、誰かと話せる。

そうなったら、ここにいる理由はなくなる。

それは本来、喜ぶべきことのはずなのに。


「……そっか」

それだけ言って酒を飲んだ。味は、よくわからなかった。


その夜、彼女の方から触れてきた。

いつもより強く。離れないように。確かめるみたいに。

終わったあとも腕を絡めたまま、離れない。


「ねえ」

耳元で、小さな声。

「なに」

「今日さ」

 少しだけ間があく。


「……ちょっとだけ、楽だった」

その言い方は、あまりにも静かで。

嬉しい報告というより、ただの事実みたいに聞こえた。

たぶん、それは楽だったんじゃない。

何も感じなくて済んだ、ってことなんだと思う。

「でもさ」

「うん」

「ちょっとだけ、不安になった」

 心臓が、わずかに跳ねる。


「……なにが」

聞かなきゃよかったと思いながら聞く。

彼女は少しだけ考えてから、言った。

「もし、私がいなくても、あなた普通に生きていけるんだなって」

意味がすぐには入ってこなかった。

「……そりゃ」

言いかけて、止まる。

違う。

今、それを言ったらだめだ。

彼女は少しだけ笑う。優しい顔で。でも、どこか冷たい。


「私ね」

続ける。

「あなたがいなくなったら、たぶん死ぬと思う」

あまりにも静かな声だった。感情が乗っていない。ただの事実みたいに。

冗談には聞こえなかった。

「……やめろよ、そういうの」

軽く返す。笑うみたいに。でも声が少し固い。

彼女は俺の顔をじっと見て、それからもう一度言った。

「嘘じゃないよ」

その瞬間、ああ、と思った。

これ、もう遅いな。

彼女は俺の腕に顔を埋める。安心したみたいに。


「だからさ。どこにも行かないでね」

お願いじゃなかった。確認でもない。

ただの前提だった。

俺はしばらく何も言えなかった。

逃げようと思えば、まだ逃げられる。今なら、ぎりぎり。

でも腕の中の重みと体温と呼吸が、それを許さなかった。

「……行かないよ」

また嘘をつく。

でも今度は、少しだけ違った。

これは彼女を救うための言葉じゃない。

俺がここに残る理由になっていた。


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