希望
最初に違和感を覚えたのは、三日目だった。
キッチンでコーヒーを淹れていると、後ろに気配がした。
振り返る前に、腕に触れる感触。
軽い。でも逃げない。
「……なに」
聞くと、彼女は答えなかった。
ただそのまま少しだけ寄りかかる。
体温が、背中越しに伝わる。
嫌じゃなかった。心地いい、というより、“必要とされている”感じがした。
その感覚が、妙にしっくりきた。
会社では、もう何もできなかった。
メール一本返すのに何十分もかかる。会議では言葉が頭に入ってこない。
誰かに話しかけられるだけで、うまく笑えない。
役に立っていないことだけはよくわかった。
いなくても回る。むしろ、いない方が回る。
そういう感覚ばかりが積み重なっていた。
でも、この部屋では違った。
俺がコーヒーを淹れると、彼女が飲む。
俺がコンビニに行くと、彼女のぶんも買って帰る。
俺が起きると、彼女も起きる。
小さいことだ。ものすごく小さい積み重ね。
けれど、その小ささだけが、今の俺には現実だった。
それから少しずつ距離が変わった。
隣に座ることが増え、触れる回数が増えた。
理由はない。
あるとすれば、どっちも一人に戻りたくなかっただけだ。
夜、テレビもつけずに座っていたとき、彼女がぽつりと呟いた。
「ねえ」
「なに」
「さみしさって、どうやったらなくなると思う?」
考える。答えはわかっていた。
たぶんなくならない。名前が変わるだけだ。
鈍くなったり、散ったり、他の感情のふりをしたりするだけで、完全に消えはしない。
「……知らない」
正直に答えると、彼女は少しだけ笑った。
「だよね」
それから、何の前触れもなく体を寄せてきた。
キスをしたのは、どっちからだったか覚えていない。
たぶんほぼ同時だったと思う。
好きとか、そういう綺麗な感情じゃなかった。
快楽とかでもない。
ただ、ここにいるって確認するための行為。
相手の体温が、自分の輪郭を少しだけはっきりさせる。
生きているというより、消えていないことを確かめるみたいな行為。
終わったあと、彼女はしばらく黙って天井を見ていた。
呼吸だけがゆっくり整っていく。それから小さく言った。
「……なんか」
「うん」
「ちょっと、生きてもいいかもって思った」
その言葉は、たぶん普通なら救いなんだと思う。
誰かが回復に向かっている。しかも、自分がそこに少しは関わっている。
そう思えたら、嬉しいに決まってる。
でも、俺はそのとき、素直に救われなかった。
ああ、と思っただけだった。
これは、たぶん俺のおかげじゃない。
たまたま今日は落ちなかっただけ。
たまたま今日は寂しさが薄まっただけ。
たまたま。偶然。気分。そういう言葉ばかりが先に浮かんだ。
良いことを自分の手柄として素直に受け取る回路が、どこか壊れていた。
彼女が少し軽くなったとしても、それが自分の価値だとは思えない。
けれど、彼女が今この瞬間、俺を必要としていることだけは、はっきりわかった。
「ねえ」
「なに」
「今日も、ここにいていい?」
その言葉に、少しだけ胸が満たされた。
必要とされている。
その感覚は、思っていたよりずっと強かった。
「……好き」
彼女が言う。軽い声で。でも逃げ場のない言葉で。
俺は少しだけ黙ってから、
「……そっか」
とだけ返した。




