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3/5

希望

 最初に違和感を覚えたのは、三日目だった。


 キッチンでコーヒーを淹れていると、後ろに気配がした。

振り返る前に、腕に触れる感触。

軽い。でも逃げない。


「……なに」

聞くと、彼女は答えなかった。

ただそのまま少しだけ寄りかかる。

体温が、背中越しに伝わる。

嫌じゃなかった。心地いい、というより、“必要とされている”感じがした。

その感覚が、妙にしっくりきた。


 会社では、もう何もできなかった。

メール一本返すのに何十分もかかる。会議では言葉が頭に入ってこない。

誰かに話しかけられるだけで、うまく笑えない。

役に立っていないことだけはよくわかった。

いなくても回る。むしろ、いない方が回る。

そういう感覚ばかりが積み重なっていた。


 でも、この部屋では違った。

俺がコーヒーを淹れると、彼女が飲む。

俺がコンビニに行くと、彼女のぶんも買って帰る。

俺が起きると、彼女も起きる。

小さいことだ。ものすごく小さい積み重ね。

けれど、その小ささだけが、今の俺には現実だった。


 それから少しずつ距離が変わった。

隣に座ることが増え、触れる回数が増えた。

理由はない。

あるとすれば、どっちも一人に戻りたくなかっただけだ。


 夜、テレビもつけずに座っていたとき、彼女がぽつりと呟いた。

「ねえ」

「なに」

「さみしさって、どうやったらなくなると思う?」

考える。答えはわかっていた。

たぶんなくならない。名前が変わるだけだ。

鈍くなったり、散ったり、他の感情のふりをしたりするだけで、完全に消えはしない。


「……知らない」

正直に答えると、彼女は少しだけ笑った。

「だよね」

それから、何の前触れもなく体を寄せてきた。


 キスをしたのは、どっちからだったか覚えていない。

たぶんほぼ同時だったと思う。

好きとか、そういう綺麗な感情じゃなかった。

快楽とかでもない。

ただ、ここにいるって確認するための行為。

相手の体温が、自分の輪郭を少しだけはっきりさせる。

生きているというより、消えていないことを確かめるみたいな行為。


終わったあと、彼女はしばらく黙って天井を見ていた。

呼吸だけがゆっくり整っていく。それから小さく言った。

「……なんか」

「うん」

「ちょっと、生きてもいいかもって思った」

その言葉は、たぶん普通なら救いなんだと思う。

誰かが回復に向かっている。しかも、自分がそこに少しは関わっている。

そう思えたら、嬉しいに決まってる。


 でも、俺はそのとき、素直に救われなかった。

ああ、と思っただけだった。

これは、たぶん俺のおかげじゃない。

たまたま今日は落ちなかっただけ。

たまたま今日は寂しさが薄まっただけ。

たまたま。偶然。気分。そういう言葉ばかりが先に浮かんだ。

良いことを自分の手柄として素直に受け取る回路が、どこか壊れていた。

彼女が少し軽くなったとしても、それが自分の価値だとは思えない。

けれど、彼女が今この瞬間、俺を必要としていることだけは、はっきりわかった。


「ねえ」

「なに」

「今日も、ここにいていい?」

その言葉に、少しだけ胸が満たされた。

必要とされている。

その感覚は、思っていたよりずっと強かった。


「……好き」

彼女が言う。軽い声で。でも逃げ場のない言葉で。

俺は少しだけ黙ってから、

「……そっか」

とだけ返した。

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