首輪
それから、俺たちは何も変えなかった。
彼女は相変わらず笑う。コンビニにも行くし、たまに外にも出る。セックスもする。
普通の生活を、少しずつ取り戻していく。
その姿を見ると、救われる瞬間もあった。
ちゃんとよかった、と思う瞬間は確かにあった。
あの日、防波堤で声をかけたことが、無意味じゃなかったのかもしれないと、少しだけ思える夜もあった。
彼女がごはんを食べている。笑っている。眠っている。
その全部が、“俺は完全に無価値じゃないのかもしれない”という細い感覚につながることもあった。
でも、それは長く続かなかった。
良くなっていく彼女を見て救われる自分と、
良くなりきった先で置いていかれるのが怖い自分が、いつも同時にいた。
どっちも本音だった。
夜になると、彼女は必ず戻ってきた。
俺の隣に。
「ねえ」
ベッドの中で彼女が言う。
「なに」
「今日もいる?」
わかっているくせに。
「いるよ」
それを聞いて、彼女は毎回同じ顔で安心した。
そのやり取りは、いつの間にか儀式みたいになっていた。
その日は、いつもより激しかった。
優しさより、確かめることを優先するみたいに。
言葉はなかった。
ただ、触れている間だけ。繋がっている間だけ。
ここにいてもいい気がした。
ある日、彼女がぽつりと呟いた。
「なんかさ」
「うん」
「死にたいって、思わなくなったかも」
その言葉に、息が少し止まった。
嬉しかった。それは本当だった。
けれど同時に、胸の奥で別の何かがざらついた。
もし、彼女が本当に大丈夫になったら。
俺は、いらなくなる。
「そっか」
それだけ返す。彼女は少し不思議そうにこちらを見た。
「なに」
「いや、別に」
嘘だった。
彼女は少し考えてから、ゆっくり笑った。
ある日、彼女がぽつりと呟いた。
「なんかさ」
「うん」
「最近、死にたいって思わなくなったかも」
その言葉に、息が少し止まった。
嬉しかった。それは本当だった。
あの日、防波堤で声をかけたことが、無意味じゃなかったのかもしれない。
そう思えるくらいには、ちゃんと嬉しかった。
でも。
同じくらい、別の感情も浮かんでいた。
もし、このまま本当に大丈夫になったら。
彼女が、ここにいる理由はなくなる。
そうなったとき、俺はどうなるんだろう。
「そっか」
それだけ返すと、彼女は少しだけ不思議そうにこちらを見た。
「なに」
「いや、別に」
うまく言葉にならなかった。
彼女は少し考えてから、ゆっくりと笑った。
「でもさ」
「うん」
「完全に消えたわけじゃないよ」
「え?」
聞き返すと、彼女は俺を見たまま、静かに言った。
「今は、あなたがいるから大丈夫なだけ」
少しだけ間があく。
「だから、いなくなったら、たぶんまた死にたくなる」
軽い声だった。でも、その言葉だけが、ひどく重かった。
冗談には聞こえなかった。
彼女はそのまま、俺の腕に顔を寄せる。体温が、じわりと伝わる。
「ねえ」
小さく呼ばれる。
「なに」
「どこにも行かないよね」
その言い方は、妙に自然だった。
疑っているわけでも、すがっているわけでもない。
もう決まっていることを、なぞるみたいに。
逃げようと思えば、まだ逃げられる。
頭のどこかで、そう思う。
でも。
腕の中の重みが、呼吸が、体温が、
その全部が、それを許さなかった。
「……行かないよ」
気づいたら、そう答えていた。
彼女は安心したみたいに、目を閉じる。
その顔を見て。
少しだけ、楽になった気がした。
たぶん、これでよかったんだと思った。
彼女が隣で眠る。呼吸がゆっくり重なる。その音を聞きながら、目を閉じる。
逃げることもできた。離れることもできた。
でも、選ばなかった。
選ばなかったんじゃなくて、選べなかったのかもしれない。
どっちでもよかった。ただ、ここにいる。
それだけで、十分だった。
朝が来る。
彼女はまた聞くだろう。
「今日もいる?」
俺はまた答える。
「いるよ」
それが彼女を生かしていて、同時に俺をここに繋ぎ止めている。
窓の外で、波の音がする。
あの日と同じ音。
でも、もう海には行かなかった。
理由は、ひとつだけだ。
死ねなくなったからじゃない。
生きる理由ができたからでもない。
ただ、彼女がここにいるからだ。
――それだけで、俺たちは今日も生きてる。




