8,初めての夜
玄関口で万里江の手を引っ張り合う、俺と万里江の母親。
「まあ!あなたこんなことして、万里ちゃんの手を放しなさい!責任取れるんですか?どうなっても知りませんよ!」
責任……そう言われると、自信がなくなってくる。
ただ万里江と一緒に居たいというだけで、責任とか覚悟とか、そんな大層なものは持ち合わせていない。
「ちょっとあなた達もこっち来て手伝いなさい!」
車から見ていたスーツの男たちを呼び寄せている。
「ちょ、ちょっと待ってください。話し合いませんか?こんなところじゃなんですから、どうぞ中へ……」
田舎の民家にしては騒がしい事態に、ご近所の目が気になってきた。
今はすごい剣幕だが、この人は万里江の母親だ。
ちゃんと話せば分かってもらえるだろう。
「あなた、万里ちゃんが話なんかできるわけないでしょ!見て分からないの?この子は病気なのよ、おかしくなってしまったの、普通じゃないのよ!」
何てこと言うんだ……!
カッとなり、怒りに任せて暴言を吐きそうになった時、
万里江が俺の手を握る力が強くなった。
少し震えているか?
「万里江、帰りたいか?」
優しく聞いた。
「そんなこと聞いても無駄です。万里ちゃんが答えるはず……」
「いや」
蚊の鳴くようなか細い声で、万里江が言った。
「万里ちゃん?」
おばさんが驚きのあまり、万里江の手を放し、自分の口元を押さえた。
「帰りたくないそうです」
俺は母親を見てそう言ってから、
「寒いから入れ」
と万里江に言った。
万里江は振り返ることも立ち止まることもなく俺の家に戻って行った。
ちゃぶ台の前に正座をしたまま、俺と万里江は固まっていた。
母親一行を追い返し、一緒にグラタンを食べてから後片付けをした……ところまではいいが……
はて。
若い女性と一つ屋根の下というのは如何なものだろう。
まさか万里江が泊まることは想定していなかったので、寝るところがない。
正確に言うと、寝るスペースはあるが、寝具がない。
「風呂に入る……よな?」
万里江も気まずいのか、いつも以上に俺を見ない。
緊張してるよな。
怖いよな……
「着替えは俺の洗ったパジャマを貸すから、脱衣所に置いておくな?俺はさ、駅前のビジネスホテルにでも泊まるから、心配すんなよ」
そう言って立ち上がった。
足が痺れていて、再びしゃがみ込む。
「たっちゃん……」
万里江が俺の腕に手をかけた。
「どした?」
再び万里江に呼びかけられ、俺は舞い上がっていたが、悟られないようぐっと奥歯を噛んだ。
言いたいことがまとまらないようだ。
万里江の瞳は微かに揺れていて、必死で言葉を探しているように見える。
「たっちゃん……」
くそっ。可愛いじゃねえか!
手を伸ばしたい。
万里江を引き寄せて、
俺の胸に収めたい。
悟られてはならない欲望と戦いながら、万里江の言葉を待つ。
野獣じゃない、
俺は野獣じゃないんだ。
荒くなってくる鼻息に気付かれないよう、俺は静かに深呼吸した。
「たっちゃん……」
俺の我慢が限界を超えたその瞬間、万里江がふわっと俺に抱き付いてきた。
「寒いのか?」
そうじゃないことは分かっていたが、他に震えている万里江にかける言葉が見つからなかった。
すべすべの髪に手を滑らせる。
まさかの家庭環境だった。悩みが深そうなことは想像に難くない。
すっぽりと俺の腕に収まる細い肩、小さく丸っこい形の良い頭、薄いけど柔らかい胸の全てを愛おしく感じた。
「一緒に居てもいいのか?」
ビジネスホテルに行こうとした俺を、引き止めようとしてくれたんだよな?
もし違っていたら恥ずかし過ぎるから、敢えて口には出さないが、きっとそうだろう。
少し顔を離して万里江の顔を覗き込む。
「ん、たっちゃん」
精一杯の万里江の返事が俺の胸を打った。
一緒にとは言ったものの……
家には布団は一組しかなく……
だからってまさか、一緒の布団に入るわけにもいかないよな。
腕を組み、俺の部屋で仁王立ちする俺を、万里江が不思議そうな顔で見ている。
『そんな可愛い顔して俺を見んな!』と怒鳴りつけてやりたい。
自分が置かれてる状況が分からないのか?
俺だって、いつまでも優しい達ちゃんでいられるか分からないんだぞ!
と、内心で叫んではいるが、そんな様子は微塵も感じさせてない(と思いたい)。
万里江は想像通りのマイペースで、風呂に入り、俺のパジャマを着て、髪を乾かし、歯ブラシを済ませた。
下着はどうしたのかとか、俺の服を着てどう思ってるのかとか、考え出したら暴走が止められなさそうだから、俺は必死で万里江のことを考えないようにしている。
これからどうやって寝るつもりなのか聞いたらどうなるだろうか……
聞いたところで何とかなる問題じゃないのだけど……
「うーん」
困り果てて目を閉じて天を仰ぐ。
聞いてみるくらい構わないか。
と思って、万里江を探す……
あれ?
どこ行った?
俺のすぐ近くに居たよな?
部屋を見回すと、俺のベッドが膨れていた。
……まさか!
布団を捲ってみると、万里江が横向きに丸まっている。
「一緒に寝る気なのか?」
「ん」
これを……チャンスと取るべきか、ピンチと取るべきか……紙一重……いや、表裏一体……だよな。
他に選択肢がないんだから仕方がない。
本当か?
いや、正直、無いことはない。
例えば大きなバスタオルを敷いて、防寒着を着込んで、俺は床に寝ればいい。
万里江はベッドで寝たいようだから、譲ってやるのが男だよな……
だが、万里江はそうは思っていないようだった。
ぽんぽんと自分の隣を手で叩いている。
どこまで試されているんだ!
残念ながら女性経験が全くない俺にとって、冒険初心者の前にいきなりラスボスが現れたくらいの衝撃だった。
あまりに無力……
成す術なく、俺は万里江の隣に横たわる。
できるだけ端っこに。
すれすれの断崖絶壁を歩かされている気分だ。
親父には申し訳ないが、俺は親父の葬式を思い出していた。
それが俺が暴走しないための唯一の手段だと思った。
ポクポクポクポク
お坊さんが叩く木魚の音と、焼香の煙を思い浮かべ、俺は試練の夜を超えた。
カーテンの隙間から光が差し込み、それが眩しくて目が覚めた。
朝か……
無事に朝が迎えられてよかった。
正直、ちっとも寝た気がしない。
万里江の体温は思っていた以上に高く、俺は熱くて布団の端を少し持ち上げ足を出していた。
それはそれで時間が経つと寒く感じて、足を引っ込めるが、またしばらくすると暑さに耐えきれず、俺はいつまでそんなことを繰り返していたのだろうか。
明け方か?
万里江がベッドに居なかったが、ようやく眠れそうな喜びに勝てず、俺はまた目を瞑った。
二度寝から目を覚ましたのは、11時近かった。
スカッとしたと言うより、ドキッとして起き上がる。
万里江は?
朝が早いあいつのことだから、明け方には動き出していてもおかしくない。
転がるように階段を降りて、台所に向かう。
居間、洗面所、風呂場を探す。
どこ行った?
いつまでも起きない俺を見限って実家に帰りましたとか……
ないない。絶対ない。
一人で自問自答を繰り返しながら万里江を探した。
時間にしたら数分のことだったと思う。
だけど俺には気が遠くなるくらいの、まるで時が止まったような長い時間に感じられた。
「どこ行ったんだよ」
泣きたかった。
せっかく万里江を問題がありそうな実家から引き離し、俺の……俺と同じベッドで寝られることになったのに……どうせ俺はいつだってピンチをチャンスに変えられない、情けない男だよ。




