6,スケッチブック
終業時間をこれ程までに意識したことはない。
かと言って、仕事をサボっていたわけではなくて、むしろ逆だ。
俺は精一杯、目の前の業務をこなし、かつて感じたことのない達成感を味わっていた。
「お先に失礼します」
別の奴に言われたことしかなかった挨拶を、緊張しながら口にした。
「おぉ、達ちゃん……」
間宮さんが何か言いかけたが、聞こえなかったフリをして振り切った。
仕事帰りの疲れは感じておらず、自宅までの運転なんてあっという間だった。
家に着くなり、すぐさま居間に向かう。
玄関の様子から、万里江が家にいる可能性がないことは分かっていた。
果たして、今日、彼女はこの家に来たのだろうか……
居間の電気を点けて、ちゃぶ台を見る。
「よっしゃ!」
中央に乗せてあったおにぎりは消え、代わりに絵が残されていた。
ほんわかとした気分になれる、優しい色合いの水彩画のようだった。
「こういうのも描けるのかぁ」
万里江の才能の全容は、まだまだ未知数だ。
金曜の夜だし、俺は、缶ビールと冷凍の枝豆をつまみに、万里江の絵を観賞しながらのんびりと過ごした。
夜がふけると更に万里江の絵は輝きを増すように思えた。
調子に乗って、家にあった缶ビールを全部飲んでしまった。
災害が多い夏で、ここのところ土日も臨時出勤が続いていたから、明日は久しぶりに家で過ごす週末となる。
万里江は明日も来るだろうか。
そしたら俺とどうやって過ごすのだろうか。
年甲斐もなくわくわくして、深夜を過ぎても寝付けなかった。
ハッと目が覚めると、もう9時近かった。
急いで下に降りて洗面所で顔を洗い、歯ブラシを咥えて縁側に干してある洗濯物を取りに行く。
いちいち畳むのは面倒だから、俺は乾いた服をすぐに着るという、超効率重視の家事を実践しているのだ。
万里江が来るかもしれないから、それまでワイドショーでも見ながら朝飯でも……
「わおっ!」
泡でいっぱいになった口をゆすごうと台所に行くと、万里江が立っていた。
「え?あ?お、おはよう」
万里江は小さく頷き、ちゃぶ台の前に座った。
洗面所でうがいと着替えを済ませ、万里江に話しかけに行く。
「前から思ってたけど、早起きなんだな。朝飯は食ったか?」
どうせ返事がないのは分かっているので、6枚切りの食パンにスライスチーズを乗せたものを2人分トースターに入れた。
「コーヒー飲めるか?」
俺はブラックしか飲まないが、砂糖と牛乳もあるから、どうにかして飲めるだろう。
だんまりの万里江はノートを広げて絵を描くでもなく、ただじっと座って前を見つめていた。
「家は近いのか?家族とか、心配してるんじゃないか?ちゃんと居場所は伝えてるんだろうな?」
俺の質問は全てスルーされるが、構わない。
「別に答えたくなかったら答えなくていいから。俺が勝手に聞いてるだけで、お前に答えを強要しているわけじゃないから」
トーストとコーヒーをちゃぶ台に並べた。
「食いたかったら食っていいし、要らなかったら手つけなくていいから」
そう言うと、万里江はコーヒーに牛乳を少し加え、砂糖をスプーンに2杯入れた。
くるくるとかき混ぜて飲んでいる。
「甘くねえの?」
甘いに決まってるけど、分かり切ってるけど……言ってしまった。
「甘い」
「え?」
万里江がしゃべった!
驚いたけど、あまり大きなリアクションでビビらせたくなかったので、平静を装う。
「だよな。甘いよな……甘いのが好きなのか?」
「ん」
万里江と会話が成立している!
俺はもしかすると、興奮が隠しきれていなかったかもしれない。
ちょっと鼻息が荒くなって……いたかもしれない……会話を続けたくて必死だった。
「パンは食わねえの?」
「ん」
「じゃ、俺、食っちゃってもいい?」
「ん」
ネタは尽きるし、俺の口はチーズパンでいっぱいになり、しゃべれなくなった。
しばらく沈黙が続いた。
だが、不思議と焦りは消えていた。
きっとまた気が向けば話してくれるだろう。
こっちを見ない万里江を、俺はずっと見ていた。
「えっと……」
朝食の片付けが済み、俺は洗濯物をいつものように縁側に干し、掃除機をかけて、仏壇の水を交換した。
一連の朝の家事が終わったところで、万里江に話しかけたところだった。
「えっと……」
それしか言葉が出てこないのは、俺が戸惑っているからで……
目の前に置かれた新しいノート。
「俺に?」
「ん」
「いやいや、無茶振りすんなよ。皆が皆、お前みたいに絵が描けるわけじゃないんだよ」
どうやら万里江は俺に絵を描けと言いたいようだった。
親切心だろうが……断わりづらい……
「ん!」
ムッとしたのか、万里江はずいっと俺にノートを押し当ててくる。
「いやぁ、無理だって。ってか、嫌だよ。お前の絵を見た後に自分のなんてさ……惨めだよ?な?気持ちは有難いけど、このノートは自分で使えよ」
「スケッチブック」
「はい?」
「スケッチブック」
「あ。このノートはスケッチブックって言うのね。教えてくれてありがとう」
ってか、今日はよくしゃべるじゃねーか。
なんだかんだで俺に懐いていそうなところもあるし、そんなことを考えていると俺はますます万里江が可愛く思えてくるわけで……
「じゃさ、絵の描き方も教えてくれよ」
なんならもっと仲良くなるチャンスだもんな。
「あのクレヨン貸してくれよ、ほら、外で使ってたやつ」
「コンテ」
「コンテって言うのか。俺もあれ使って書いてみたい」
万里江は黙って鞄からコンテを出して、ちゃぶ台に置いた。
「ほら、どうやって使うのさ。ってか、なんで四角?持ちにくくない?」
俺がそう言うと、万里江はコンテを横に倒して紙に置き、ざっと滑らした。
太くて真っ直ぐの黒い帯が一瞬で現れた。
「ああ。そうやって使うのか。だから四角いんだな、丸いと転がっちゃうもんな」
見よう見まねで、俺もコンテを紙の上で滑らす。
「お……おぉ。できた」
何を描こうと考えてやったわけではないが、俺の線と万里江の線の一部が重なった。
万里江が黙ってそこを指で擦ると、その部分がぼやっと霞んだようになった。
「おお!アートっぽくなった!」
モノクロの線が描かれただけの画用紙だが……
「完成だ、うん、これでいい。完成だ」
じっと俺を見てる万里江に宣言した。
『もっと描け』とでも言いたげか?
真意を探ろうと万里江の瞳の奥を覗き込む。
「いるか?」
いつも絵をもらっているお礼に、俺の初作品をあげてもいいと思った。
「いらないよな」
天才アーティストにおこがましい事を言ってしまったと恥ずかしくなった。
ところが万里江はピリピリとそのページを破り、しげしげと眺めると、俺の前に置いて、右下を指先でトントンと突いた。
「え?」
一旦、俺と目を合わせ、万里江は再びトントンと紙を指す。
「あ?署名しろって?」
この前、俺が万里江にやった仕草だったと思い出した。
コンテの角を使って『南原達夫』と、俺はフルネームを書いた。
「みんな『達ちゃん』って呼ぶから、万里江もそう呼んでもいいぞ」
そんな機会がいつかやってくるといいなと思いながら、ダメもとで提案した。
「昼はどうする?何もないから買い物に行かなきゃならないんだけど、お前も行くか?」
一人で行ってもいいけど、できれば一緒に行きたい。
女性を買い物に誘ったことなんて無かったから、突然、照れくさくなって、俺はそわそわしながら外出の準備を始めた。
財布、携帯、エコバッグ……
買い物の三種の神器を持ち、玄関に向かった。
「じゃ、行ってくるわ」
もしかしたら、俺が帰った時には万里江は居ないかもしれない。
そう思うと、急に寂しくなって、もう一度、声を掛けることにした。
「やっぱり一緒に行かないか?」
そう言いながら振り返ると、すぐ後ろにいた万里江にぶつかってしまった。
俺の体当たりによろける万里江、それを咄嗟に支えた俺の右腕。
距離が近くて心臓がばくんばくんと……
「ご、ごめん。大丈夫か?」
万里江は俺の腕からすり抜けて靴を履き、玄関を出て行った。




