4,再会
昨夜、もう万里江に会う機会はないかもしれないと、半ば諦めに似た気持ちと共に眠った。
朝になり、目が覚め、万里江がくれた絵を改めて眺めてみる。
「天才だな」
俺の人生に、天才と呼べるような人物との出会いはこれまで無かった。
スカスカになったもう書けないボールペンを燃えないゴミに分類して捨てる。
せっかく絵を手にしたのに、説明の付かないこの喪失感の扱い方を俺は知らない。
いつも通り会社の作業着を着て、安全靴を履き、重たい作業バッグを肩にかけて家を出た。
働き始めて15年間、この道を通るときに胸が弾んだことなと一度だってない。
万里江を隣に乗せて車を走らせただけなのに……
俺はどうかしてしまったみたいだった。
寝ても覚めても、それがたった一晩だけだとしても、俺の目に映る景色をがらりと変えてしまったらしい。
どうせ、出てくれないか、出てもしゃべらないだろう。
今日の仕事終わりに電話をかけてみようかと、怯える自分を説得している最中だった……
「おまえ」
会社の駐車場の端に座り込んで、ノートに絵を描いている万里江がいた。
急いで駐車して駆け寄った。
「こんなところで何してんだよ」
万里江は微かに動いたが、動かす手を止めなかった。
「絵を描いてるんだな」
覗き込むと、今日は四角いクレヨンのようなものを使っていた。
「駐車場は危ないぞ。蚊だっていっぱいいるし……」
夢中になってしまった万里江を振り向かせるのは難しいらしい。
俺は車のキーを万里江が着ているジャケットのポケットに入れた。
「疲れたら俺の車で休むんだぞ」
そう言って会社の建屋に歩き出した。
途中で、万里江がそのままキーを持って帰ってしまったらどうしようかと、頭を過ったが、きっといつまでもああしているに違いない。そんな確信めいたものが俺にはあった。
「よ、達ちゃん、見てたぞ」
間宮さんがニヤニヤしながら近付いてくる。
「何をですか?」
パソコンを開き、メールを確認しながら相手をする。
「例の美女、手に入れたんだな」
「……な!人聞きの悪い言い方しないでくださいよ。そんなんじゃありません」
「じゃ、何だって言うんだよ。朝から駐車場でイチャコラしてさ、見せつけてくれんなぁ、まったく」
「今朝来たらあそこに居たんです。こんなこと思いもよらなかったですよ。俺はただ、先日拾った落とし物を彼女に渡しただけですから」
「へぇ~」
信じてくれてないが、これ以上言うこともないので、仕事に没頭した。
俺がいるメンテナンス部は、電信柱の定期検査と、破損個所の補修を行っている。
ここのところ続いた大雨や台風の影響で緊急応対が続いたため、年初に組んでいたメンテナンススケジュールが大幅に遅れていた。
今日はこれから、スケジュールの再調整を行う部署内ミーティングが行われる。
急いで資料をメールで配信し、会議室に移動した。
「それでは全体的にスケジュールを後ろ倒しにする案と、比較的リスクの低いエリアの点検を飛ばして予定を詰める案と二案ありますが、皆さんの意見を聞かせてください」
進行役の俺が、ホワイトボードの前に立ち、総勢30名の作業員に語りかける。
「これからも雨天の度にリスケしてたんじゃ手間が増えるだけっすよね?全体的にこのまま後ろ倒しにするっていうのじゃ駄目なんすか?」
俺とバディを組んでいる小竹が口火を切ってくれた。
いつも誰も何も言わないのが恒例になっている部署内ミーティングにおいて、こいつの存在は貴重だ。
「意見をくれてありがとう。リスクの高い低いに問わず、順番通りに点検を進めていくというのは合理的と言えば合理的だよな。他に意見はありませんか?」
悪態とは言えないが、ここにいる者達に『やる気』を求めるのは難しい。
出世とは縁のない部署だ。年中同じことを同じ給料で繰り返すだけの日々に希望を持てなくなっても当然だ。
俺も元は都市開発設計部にいたが、親父の病気をきっかけに部署異動を願い出た。
メンテナンス部は『仕事に全てを賭けられない男』が集まった部署と言えた。
「でも、達ちゃんよぉ、最近の事故はやっぱりリスクの高い所で起きてるんだからよぉ、そっちを先に点検しちまえば予防になって、事故は減るんじゃねぇか?緊急、緊急って振り回されるのはごめんだからよぉ」
「間宮さんのご指摘は一理あります。保守点検を先んじて行うことで、停電を未然に防げれば効率的です。問題は、その順位付けを誰がどう行うかということになりますね」
間宮さんは異色の経歴の持ち主で、開発部で部長職まで昇りつめた矢先、メンテナンス部に飛ばされてきた。どうやら女性関係でやらかしたらしい、という噂だ。
「皆さんはどう思いますか?」
他人事のように聞いている、同じ作業着に身を包んだ同僚らに問いかけるが、無反応だった。
「俺、やっぱ、間宮さんの意見に寝返ります。順番通りやるよりも効率よく点検していった方が市民の為になりますもんね。順番付け、俺にやらせてもらえませんか?出来たら先輩と間宮さんに添削してもらうっす」
「ありがとう、小竹」
走って行って抱きしめてやりたかった。
こんなやる気のない部署に新卒で配属されたっていうのに、小竹はモチベーションを切らしていない。立派だな。
目頭が熱くなってきたのを悟られないように会議をお開きにした。
ちょうど昼飯の時間になっていた。
「先輩、食堂行きますか?席取っときましょーか?」
社員食堂はいつも混雑するが、一人分の席ならどこかしらに座れるんだが……
「悪いんだけど、二席取っといてくれないか?」
万里江の様子が気になる。
「いーすよ。じゃ、俺、先行ってますね」
やっぱり。
万里江は朝と全く同じ場所で、同じ体勢で絵を描き続けていた。
「まだ仕上がらないのか?」
上から覗き込むと、社屋とそれを取り囲む木々が正確に描かれていた。
「そんな、写真みたいなのも描けるんだな」
これまでに俺が目にしたのは、心の中っていうか、説明のつかない感情表現のような絵だったから、好き嫌いで評価していたが……
対象物を忠実に写しているこの絵は、万里江の絵の底力を見せつけるものだった。
「腹減っただろ?メシ食わないか?」
社食に誘ったら迷惑だろうか。
でも、この辺に飯を食える場所は他にない。
「まあまあ旨い」
万里江の手が止まった。
お……反応があったぞ。
ノートをパタンと閉じたけど、その場で座り込んでいる万里江に手を差し伸べる。
「ずっと同じ姿勢で体が固まっちゃったんじゃないか?」
俺は手の平を万里江の顔の前でひらひらとさせた。
おずおずと俺の手を握る万里江……触れた瞬間、その柔らかくて軽い触感に衝撃が走った。
ちょっと力を入れただけでふわりと簡単に立たせることができる。
女性とは皆、こんな感じなのだろうか。
さっきまで普通に話せていたのに、突然、とてつもなく恥ずかしくなって、俺はぱっと手を放した。
「さ、食堂はあっちだ。混むから早く行こう」
社員食堂とはいえ、社外の人も利用することはある。
社内にも取引先にも女性はいるので、圧倒的に男性が多いとは言え、『女性だから』という理由で目立つことはない。
だが、万里江は別だった。
あまりにも場違い感があり過ぎる。
「えっ、先輩、彼女連れて来たんっすか?」
小竹の声に、周りにどよめきが広がった。
「そんなんじゃないから……」
「んな、照れんなって。達ちゃんにもようやく遅い春が来たってことだよなぁ」
間宮さんまで近くにいて、俺をからかってくる。
「やめてくださいってば」
「んで、お嬢さんは何をお召し上がりになるの?」
間宮さんが万里江に聞いているが、いつもの無視だ。
「鮭定食でいいか?俺と同じのだけど」
「ん」
小さな返事が返ってきた。
「俺、買って来るから、ここに居ろな?この人達のことは相手しなくて構わないから」
そう言い残し、食券機に向かった。




