32,キューピット
今日から産休に入らせていただく。
本来であれば、7月末からなのだが、今年度の有給休暇を使わせていただけることになり、2週間前倒しでお休みに入る。
「元気な赤ちゃん産んで戻ってきてくださいね!」
と、柏木さんが会社を代表してひまわりの入ったブーケをくれた。
「それで、このあと……覚えてますよね?」
「うん、ばっちり」
二人にだけ聞こえる小声でやり取りをした後、オフィスを出た。
これから一旦帰り、夜に柏木さんが遊びに来る準備を始める。
柏木さんが食事に誘ってくれたのだけど、どうにもこのお腹が邪魔でお店に入る気になれなかった。
もう、10kg以上太ったし、横向きにしか寝られないし、しかも寝返り打てないし……重くてうんざりし始めている。
出産が怖くないわけではないが、早くこの不自由から解放され、お腹の赤ちゃんに会いたい。
「南原さん、ちょっと待って」
建物を出る時に、滝岡社長に呼び止められた。
「車で送るから、ここで待ってて」
「いいえ。大丈夫です。絶対座れますし」
これだけあからさまな妊婦だと、私が乗ってきたとたんに電車のシートが空く。
申し訳ないけど、どうしても座りたいので、有り難く譲っていただく。
「お仕事に戻ってください。では、これで」
一礼して歩き出すと、滝岡社長が私の前に回ってきた。
「ちょっと聞いて欲しい事があって」
「そうなんですか?では、よろしくお願いします」
滝岡社長が駐車場に向かい、私はビルの壁に寄りかかりながらぼんやりと考えた。
滝岡社長が話があるって……
以前、告白のようなものを受けたことがある。
もちろん、私にはたっちゃんしかいないからきっぱりとお断りしたつもりなのだけど。
伝わってなかったとか?
いやぁ、それはないかぁ。
お相撲さんもビックリのこの体型だ。
女性として見られているとは思えない。
……ってことは
車が目の前に停まり、私は助手席に乗り、シートベルトを締めた。
「大丈夫なのか?その、お腹、苦しくないの?」
「大丈夫です。安全第一なので」
発車し、信号を待ち、角を曲がり、走り続ける……
「あの、お話って?」
「あ、ああ、それな、今、言おうと思ってたんだよ」
と、言われてからまた沈黙が続く。
もう家に着きそうだけど……?
「あ、すみません。買いたいものがあるんでした。申し訳ないですけど、スーパーに寄っていただけませんか?」
いつもお世話になっているから、これくらいで恩を返せたとは思わないけど、我ながらナイスアシスト、的な?
「あ、そうか、それはよかった」
だいぶ心ここに在らずな感じがするけど、運転は大丈夫だよね?
事故りたくないんですけど……
駐車場に車を入れ、そのまま座っている滝岡社長に声をかける。
「いろいろお手数をおかけして申し訳ないんですが、カート押すの手伝っていただけませんか?」
「あ、そうか、そうだよな」
慌てて車から降りてきた滝岡社長を連れて、エレベーターに乗った。
「何を買うんだ?」
「夕飯です」
私に質問してないで、早く言えばいいのに。
「あ、そうか、夕飯だよな」
滝岡社長は人目を引く容姿をされている。
更に、品の良い髪型、質の良い衣服、清涼感あふれる香り、その上、社長という肩書……そうとうモテるだろうな。
「あ、あのさ、南原さんが、この前……」
やっとしゃべりだしたと思ったのに、知り合いに会ってしまったようだ。
「滝岡さん、お久しぶりです」
「ああ、川上さん、こんにちは。春の会合以来ですね」
立ち話をしている二人を残して、私は買い物を続ける。
柏木さんから餃子がいいとリクエストをもらっているのだ。
ニラと白菜を持ってカートに入れる。
まだ話しているので、今度は精肉コーナーで合い挽き肉を持ってカートに入れる。
あと、皮はどこかな……
きょろきょろしていると、滝岡社長のお知り合いの方に声を掛けられた。
「この方は?滝岡さん、ご結婚されてましたっけ?」
「いいえ。私は独身です。この方は今日から産休に入られる社員で、南原さんです」
「南原さん?」
「はい。こんにちは」
こういう時の社交辞令を私は知らない。
「もしかして、南原万里江さんですか?」
「はい。そうです」
私、この人知ってたかな?
「いやぁ、お会いできて光栄です。こう見えて、私、あなたのファンです」
「はあ……」
「いやぁ、博覧会のコンペに出されたデザイン、本当によかったです!惜しくも選ばれませんでしたが、僅差だったんですよ、本当、田所さんのと一票差だったんですよ。あ、これは、ここだけの話にしてくださいね」
「川上さん、選考委員だったんですか?」
「そうなんですよ。我が社は既に広告印刷の受注を取っていましてね、あの選考は、ほら、市長の件でいろいろあったので……外部の意見も聞こうってことになって、その一人として呼ばれてたんですよ。私は、南原さんのデザインが一番いいと思ってたんですけどねぇ」
嬉しかった。
心のどこかで、あの選考からは外されてたんじゃないかと疑っていた。
表向きは選考対象だったけど、父の不正が私の挑戦を邪魔したんじゃないかって。
ちゃんと、闘えたんだ。
それで、負けただけ。
急に涙が頬を伝い、滝岡社長と川上さんがおろおろしていた。
「ごめんなさい。なんだか、とても嬉しくて。私のデザインを見てくださったんですね。褒めていただきありがとうございます」
後で、柏木さんにも教えてあげよう。
口にはしないけど、彼女だって私と同じ気持ちを持っていたはずだから。
「いやいや。こちらこそ。本当にあのコンペは熱かったですよ」
川上さんとは別れ、私と滝岡社長は餃子の皮を探した。
「滝岡社長のお話って、柏木さんのことですか?」
先にしびれを切らしてしまい、とうとう私から聞いた。
「あ、うん、その、そうなんだ……けど、なんと言ったらいいのか……」
まあ、いいや。
時間はあるから、このまま家に連れて帰るか。
そんな気持ちで、再び車に乗った。
早くしないと、柏木さんが来ちゃうんですけど……
車では何も話さず、家に着いてしまったので『荷物を持って来ていただけますか?』と滝岡社長を家に上げた。
それからも、『お腹がつかえて大変なのでニラを切ってください』『力が入らないので、挽き肉あんを捏ねてください』『ちょっとテレビの角度変えてもらえますか』『換気扇のフィルターを交換したいんですけど』……私は滝岡社長をこき使い、もうこれ以上頼むことがなくなった。
話す時間はたくさんあったはずだ。
ほとんど無言だったんだから。
「あ、そうだ、手を合わせてなかった」
滝岡社長はキッチンで手を洗い、仏壇の前に座った。
たっちゃんに手を合わせている人を後ろから見る度に、たっちゃんは死んでしまったんだなと実感する。
座布団に手をつき、滝岡社長がくるっと振り返った。
「前に、南原さんから言われた、柏木と……公私ともに……ってやつなんだけど」
ようやくか。
「柏木は俺みたいなおじさんは好みじゃないと思うんだ」
「そんなに歳離れてましたっけ?」
「10歳違う」
「柏木さんは気にしてないと思いますけど」
「彼女はなんて言うか……若くて……」
ピンポーン
最高のタイミングだ。
「滝岡社長、おめでとうございます。一緒に来てください」
私はそう言って、玄関に急いだ。
「ちょっと待ってね、今、開けるから」
大きな声でそう言いながら、滝岡社長の靴を手に取りながら、私はドアの施錠を外した。
「南原さん?」
玄関に立つ滝岡社長に靴を押し当てる。
あ、ちょっと服が汚れたかも、ごめんなさい。
「おじゃましまーす」
柏木さんが元気にドアを開けて見たのは、玄関であたふたと揉み合っている私と滝岡社長の図だ。
「え?社長、何でいるんですか?」
「え、あ、なんでって……そっちこそ」
「ごめんね、柏木さんが来る前に帰ってもらうつもりだったんだけど」
私は笑いを隠す為、両手で顔を覆った。
「ちょっと!酷くないですか?万里江さん、私が社長のこと好きなの知ってて……!そりゃあ、二人がいい関係になったって、私にとやかくいう権利なんて無いですけど、社長だって、少しは気を遣ってくださいよ!働きにくくなるじゃないですか!」
柏木さんの声があまりに大きくて、私はそっと玄関扉を閉めた。
「おめでとう、柏木さん」
「はあ?万里江さん、どうしちゃったんですか?」
「ほら、見て」
私は滝岡社長を指さした。
滝岡社長は靴の形が変わるくらい、自分の靴を抱きしめていた。
「柏木は……もしかして俺のこと……」
「そうですよ。もう白状します。破れた恋に未練がましく縋りつくキャラでもないんで。私は社長のことが好きだったんですよ!」




