31,家族
6月になった。
出産予定日まで、あと約3ヵ月。
お腹はだいぶ大きいと思うのだが、周りからは『これからもっと大きくなる』と聞く。
胎動も感じていて、内側から蹴とばされたり、ぐいぐい動く感じが……正直、痛いんですけど……。
これ以上大きくなったら、本当に出てこられるのか、不思議でならない。
4月に行われたデザインコンペの入札結果が先日公表された。
私たち株式会社ティー・ヴェルスは、残念ながら負けてしまった。
5年前の入札の汚職事件が刑事告訴され、それに関与したとして板倉は今回の選考から外された。
私の関与は立証されなかったので、株式会社ティー・ヴェルスは選考対象だった。
正当に評価されたのかは分からないが、それを証明する術は無く、信じるしかないのが現状だ。
採用されたのは田所さんの所属している会社で、今回を機に大きく飛躍を遂げるだろう。
板倉の会社がコンペから降ろされたことで、田所さん達の溜飲は下がっただろうが、私の立場を慮ってか盛大なお祝いは控えたようだった。
たっちゃんが亡くなった年末から、たった半年の間に、コンペに参加してその結果が出て……本当にいろんなことがあったなぁ……。
「万里江さん!無理しなくていいですよー」
最近は、大きなお腹が邪魔して、パソコンを操作するのに、腕を伸ばしっぱなしだ。
お腹がつかえて机に肘をつけないので、いつも上を見て、背もたれに体を預けている。
「大丈夫ですよ。あとは私やっておきますね!」
頼もしい柏木さんに甘えっぱなしだ。
コンペに負けたのと同時期に、父は失職した。
裁判は長引くようで、まだ判決には至らないが、世間をお騒がせしたという理由から、辞職したのだった。
「万里江さんは電話が鳴ったら応対してくれればいいですからねぇ」
そう言ってもらい、あまり鳴らない電話の前でゆったりと座っている。
今日は帰りに母と買い物に行く約束をしている。
ベビーベッドはいるかとか、ベビーカーはどこのメーカーがいいのかとか、母は持ち前の世話焼きを発揮して、いろいろと調べている。
おばあちゃんになるのが相当嬉しいらしく、スマホを新調し、動画の撮り方を聞いてきたりする。
いちいち相手をするのが面倒に感じる時もあるが、あまりに楽しそうなので、つい、こちらも笑みが零れてしまう今日この頃だ。
「お先に失礼します」
定時になり、会社を出た。
ほとんど仕事をしていないので、お給料をもらっているのが申し訳なくなってくる。
だけどあの時、コンペに残りたいばかりに、勢いで退職しないで良かったと、今は心の底から思っている。
あの時、滝岡社長が『会社を辞めるのは得策じゃない』『こんな時に手放していい福利厚生じゃないだろう?』そう言って引き止めてくれなかったら、今頃、どうなっていたことか。
無事、出産を終えたら、一生懸命仕事をしてお返しをしよう。
今は有り難く、皆さんの厚意に甘えさせていただこう。
「さ、急ごう」
そうお腹に声を掛けて、待たせている母の元へ歩き始めた。
会社の前の通りを、よいしょよいしょとスイカのようなお腹を抱えて歩いていると……
「おい」と聞こえた。
よいしょ、よいしょ。
しばらく歩くと、また「おい」と聞こえたので、振り返ってみる。
「お父さん?」
アイロンのかかっていない皺だらけのシャツを着て、無精ひげを生やした父がいた。
「こんなところで何しているの?」
私に会いに来る以外にないだろうが、他に言葉が思い浮かばなかった。
「あいつはどうしてる?」
「あいつって誰のこと?」
「お前の母親だ」
「あなたの妻でしょ?」
少しやつれて、落ち窪んだ目元にショックを受けたが、気付かれないようにした。
可哀想などと思う必要はない。
この人は身から出た錆で、ボロボロになっているだけなのだから。
無視して駅に向かって歩いているうちに、父はどこかに消えたようだった。
「もう肌着ばっかりこんなに要らないよ」
いい加減、母を止めないと、無限に同じものを買おうとする。
「赤ちゃんは汗をかくから、こういうのはいくらあっても構わないのよ」
「ちゃんと洗濯するし、毎分着替えるわけじゃないでしょう?」
「万里ちゃんったら、毎分だなんて……そんな頻繁に着替えるわけないでしょ……」
母に鼻で笑われ、一緒になって私も笑った。
「だから言ってるの。もう家にもいっぱいあるし、こんな小さい服ばっか何十着も要らないから、これ戻してきてくれる?」
母はしぶしぶカゴを持って売り場に戻って行った。
「ふぅ」
お腹が重いし、足が浮腫んで、立っているのがだるい。
自動販売機の隣にベンチを見つけて、そっちに移動する。
座ったら座ったでお腹が重くて、お尻が痛い。
「おい」
また父の声がした気がしたが、見回してもいない。
母のいる方に目を向けると、さっき見た父が母に向かって声を掛けているようだった。
「おい」
無視する母。
「由紀子」
母は立ち止まり、一瞬だけ父を見て、また歩き出した。
「待ってくれないか、少し話を聞いてくれないか?」
「あなたが私の話を聞いてくれたことなどありましたか?」
「それは……」
母の剣幕に押され父はおずおずと後ずさった。
中身が空になったカゴを返し、母がこちらにやって来る。
「行きましょう、万里ちゃん」
母に手を握られ、エレベーターに向かった。
「お父さんね、さっき、会社にも来たんだ。あとをつけて来てたのかな」
一人で静かに佇む父の姿を初めて見たので、ほんの少し胸が痛かった。
「万里ちゃん、行きましょう」
私に合わせてゆっくりと歩きながら、母がつぶやくように言った。
「私、パパに意地悪だったかしら」
返事ができなかった。
「自分がされて嫌だったことを、相手にし返すなんて、心の狭い人間がすることじゃない?」
「うん……」
「達夫さんならどうしたと思う?」
「たっちゃんなら……あんな人の話でもちゃんと聞いたんじゃないかな……」
「やっぱりそう思う?」
私の記憶にある父は常に傲慢で、人を見下す人だったから、今さらちょっと改心したくらいじゃ、私の態度を変える気にはなれないのだけれど。
母があまりにも悲しそうな顔をしていて心が痛い。
「今夜は帰ってあげれば?」
どうしてこんなことを言ってしまったのだろう。
せっかく決意を固めて、家を出てきた母に失礼だっただろうか。
だけど……
「え?」
そう聞き返す母が、ぱっと花が咲いたようと言うか……可愛らしかった。
「一度、話を聞くくらいいいんじゃないの?」
「そうかしらね」
そわそわと洋服の襟なんて確認しちゃって、少女じゃないんだから……思わず苦笑い。
母は私が妊娠していると知り、一緒に住むようになってからよく話すが、離婚をする気はなさそうだった。
きっと、そういうことなのだろう。
自分が居なくなって困る父の姿を見たかっただけ。
なんなら呼び戻しに来るのを待っていたのかも知れない。
「もしかすると……ママにも悪いところがあったかもしれないものね。ほら、甘やかし過ぎたって言うの?私がいないと何もできない人にしてしまったのは……私の責任もあるのかも……」
恥ずかしそうに顔を赤らめて、なに言っちゃってんのか……
「娘の前で惚気ないでくれる?」
「そんなんじゃないわよ」
揚げ物のいい匂いが漂っている。
「あ、これパパが好きなコロッケだわ」
「買って帰ってあげなよ。私も自分の分、買って行くから」
私たちはそれぞれに夕飯の惣菜を買い、駅で別れた。
母が納得のいく答えを導き出せますように。
私は、その夜、久しぶりに仏壇の前にちゃぶ台を置き、たっちゃんと一緒に食事をした。




