21,受け継がれる縁
漂う線香の煙を背に、母は足を崩した。
「達夫さんはね、私のこと、由紀子さんって呼んでくれたのよ」
仏壇に振り返り、母はぼそっと「ありがとう」と呟いた。
「私はずっと、万里江のお母さんとか市議の妻とか、そんな風にしか呼ばれなくて、貴島さんってたまに言われてもそれはパパの名前でしょう?って思ってたの。それでも我慢して頑張ってきたのにパパは『おい』としか呼んでくれないし」
それは、私も同じだ。
お父さんが肝心な人の名を呼ぶのを見たことがない。
「だから、嬉しかったのよ。達夫さんが、私の名前を聞いてくれて、『由紀子さんとお呼びしてもいいでしょうか?』って言ってくれて、あ、この人は私を尊重してくれているって思ってね」
分かる。
たっちゃんのその感じ、伝わってくる。
私はうんうんと、笑顔で頷いた。
「それでね、家に帰ってパパにいつものように『おい』って言われて、カチンと来ちゃってね、私『由紀子です』って言ってやったのよ」
お母さんにしては思い切った行動だから驚いた。
「名前があるので、ちゃんと呼んでくださいって言ってみたの。そしたら……」
お父さんは相手にしないだろうな、そう思った。
あの人がこっちの真剣な話をまともに聞くはずがない。
「ふんって……鼻で笑われたわ」
やっぱり。
「それで決めたの。もうこの人のために人生をすり減らすのはやめようって。世の中には達夫さんのように相手を思いやれる人だっているんだから、私はそういう人と関わっていこうって……ようやく覚悟を決めて……パパの元を離れる決心を……その矢先に……」
たっちゃんが優しかったのは私にだけじゃなかったんだ。
私の家族にも、ううん、きっと誰に対しても、たっちゃんは同じように接してくれる。
「お母さん、行くとこあるの?」
家を出てきたというのは本当だろうか。
この歳で、仕事もしていないのに一人で生きていくなんて出来るのだろうか。
「しばらくお姉さんのところにお邪魔するつもり」
沖縄に住んでいる伯母とは、もう何年も会っていない。
「パパの近くにいない方がいいと思うの。距離が離れてる方が、安心でしょ?」
痛々しい笑顔を向けられて、思わず涙が落ちた。
「たまに帰ってきてね」
「ええ。その都度、会いに来てもいいかしら?」
「もちろん。いつでも。待ってるからね」
私の心の旅立ちと時期を同じくして、母も決心を固めたようだった。
額縁に飾られたたくさんの私の絵。
「そんな大層なものでもないのに……」
たっちゃんは壁の絵を見ながら、よく微笑んでいた。
『本当、上手いよなぁ』『よくこんなの描けるよなぁ』『いや、万里江は天才だ』『さすがだよ、尊敬する』
数々の賞賛を惜しみなく与えてくれた。
だから、自信を取り戻せたの。
父のコネとか、会社の名前とか、若いだけのくせにとか、いろいろ言われてぺしゃんこに潰れていた私の自尊心を、たっちゃんが回復させてくれた。
毎日描いて、たっちゃんに絵をあげる時が一番幸せな瞬間だった。
そしてその宝物が今、私に語りかけてくれる。
これから闘うコンペに立ち向かう勇気をくれる。
パソコンを開いてデザインソフトを立ち上げた。
色、形、イメージ……私らしく、たっちゃんが好きそうな……優しくて明るい、元気が出る感じ……
時折、部屋を見回しては、たっちゃんとの記憶を思い返し、思い浮かんだ印象を画面に落とし込んでいく。
たっちゃんのことを思い出すだけで、幸せになれる。
もう会えないけれど……それは考えない。
今は、良かったことだけを。
「ふぅ」
外で鳥が鳴いていて、ぼんやりと明るくなっていることに気付いた。
「もう朝か」
まだまだ完成にはほど遠いけど、何となくイメージが掴めた。
「なかなかいい感じじゃない?」
仏壇のたっちゃんに報告に行く。
きっと褒めてくれている。
ジャンプして、それから私を抱きしめてくれるんだろうな。
そして『痛いってば』って言って、だけど放してほしいわけじゃなくて……
あぁ、駄目だ。
朝から泣いちゃう。
たっちゃんのことは頭から締め出して、私はシャワーを浴びに行った。
「おはようございます、滝岡社長、柏木さん」
朝からお二人で会議とは珍しい。
デスクに座って、パソコンでメールチェックを始める。
広告データの色校正を再チェックし、印刷スケジュールを確認した。
「万里江さん、ちょっとお話が」
「はい」顔を向けると、柏木さんが難しい顔をして立っていた。
「あの、お願いがあるんですけど」
「何でしょうか」
ちょっとドキドキしてしまう。
「これは、社長にはもうお話ししたんですけど……」
「はい」
「万里江さんが良いって言ってくれたらなんですけど……」
「は、い」
柏木さんは目をぎゅっと瞑って、
「私もデザインコンペに参加させてください!」と、言った。
「え?」
「あ、自分も出したいとかじゃないです。あの……万里江さんの手伝いがしたいなって、その、私なんかじゃ戦力にならないのは分かってるんですけど、もし可能であれば、万里江さんの作業を近くで見たいなって。ほら、勉強になるので……」
驚いて声が出ない。
「でも……」
時間を取られるだけで、お金にならないよ?
もちろん勝ち取るつもりで挑戦するけど、正直、市の主催する博覧会が私みたいな個人に発注を決めるとは思えない。
こんな大きな仕事の相手には、大手のデザイン会社を選ぶのが妥当だろう。
「ですよね。分かってましたから、ダメ元で言ってみただけですから……気にしないでください」
「そうじゃなくて……」
上手く説明できない。
「えっと、柏木さんがやりたいのなら、私は構わないけど?」
「え!いいんですか?」
「言っておくけど、お金にはならないよ?骨折り損のくたびれ儲けってやつになるよ?」
「分かってます、分かってます!」
柏木さんは「やりました、社長!」と言いながら、滝岡社長とハイタッチをしている。
「なんかどうしても手伝いたいみたいなことを相談されたんだけど、俺に言われてもなぁって。言うだけ言ってみろってアドバイスしてたところだったんだ」
「そうだったんですね。会社にはご迷惑かけないようにしますので」
「いや、いいよ。なんなら、二人で勝ち取って会社に迷惑かけちゃってよ」
「あー社長、言いましたね?本当にやっちゃいますよー?」
社長も柏木さんもいい人でよかった。
たっちゃんと知り合ってからの出会いは、どれも素晴らしいものばかりだ。
たっちゃんが繋いでくれた縁を大事にしたい。
「さ、それでは柏木さん、仕事に戻ってくれるかな?南原さんの手伝いは基本的に業務外の約束だから忘れないで。あくまで、基本的には、だけどね」
社長がにっこりと笑い、柏木さんがデスクについた。
私は再びパソコンに集中を戻して、ファイルを確認する。
くらっ
一瞬、目の前が暗くなり、視界がぼやけ始める。
目を擦って、瞬きを何回か繰り返した。
頭の奥がぐらぐらと揺さぶられるような不快感と共に、吐き気が込み上げてくる。
気持ち悪い……
咄嗟に立ち上がり、トイレに駆け込んだ。




