20,南原 万里江
お酒は飲んでないし、夜は眠れているはずなんだけど、朝起きるのが辛い。
もともと朝型で早起きは得意なはずなのに。
重たい身体を引きずるように出社した。
会社に着いてしまえば、頭が切り替わって、少しすっきりしてきた。
「万里江さん、ちょっといいですか?」
滝岡社長に手招きをされた。
「はい」
自席を立ったところで、突然、耳に飛び込んできた……
「貴島ですか?」
柏木さんが当惑している。
入社した時は旧姓だったが、今は南原の姓が定着している。
外部の人が旧姓で電話をかけてくるなんて、いったい誰だろう。
柏木さんがこっちを見たので、視線がぶつかる。
軽く手を上げて、『代わります』という合図を送った。
滝岡社長は、「どうぞ、どうぞ」と私に電話を優先させてくれた。
「はい。お電話代わりました」
『やっと出たか。俺だよ、板倉だ』
そうか……
この人に名刺を渡した時はまだ旧姓だったことを思い出した。
「なんのご用件でしょうか?」
『先日のコンペの回答をもらってなかったからさ、メールも無視されちゃうし』
「お返事なら、メールをいただく前にしたはずですけど」
『そうだっけ?』
「はい。きちんとお断りしたはずです」
『考え直した方がいいよ。そんな零細企業、万里江が居るような場所じゃないだろ?うちに帰ってきてくれたら、そこの年収の5倍は出すって約束するよ』
「お断りします」
私の声しか聞こえていない社長と柏木さんは、何事かといった目で私を見ている。
『今度は貴島万里江の名前で作品を発表していいよ。まさか、君がこんなに出たがりな性格だとは知らなくてさ、俺も反省したんだ』
「そういう問題じゃありません」
『意地を張るなよ。5年も前の話じゃないか、結構根に持つタイプだったんだな』
話せば話すほど、気分が悪くなってくる。
「もう電話してこないでいただけますか?」
『あんまり自信過剰になんなよ』
板倉の声のトーンが下がった。
『父親のバックアップや、俺の会社の協力が無ければ、そもそもお前の作品が表に出るきっかけすら無かったんだ。運よく一回、選ばれたくらいでいい気になって、二度とこの業界に戻ってこれなくしてやるぞ』
脅すような口調にムカムカして、顔が歪んだ。
「何とでも言ってください」
眩暈がしてきて、思わず目を瞑る。
「失礼します」
そう言って受話器を置いた。
「万里江さん、今の電話なんだったんですか?大丈夫ですか?」
柏木さんが背中を撫でてくれている。
「昔の知り合いで……戻ってこないかって言われてて……」
「え?!」
柏木さんと社長がおろおろし出した。
「でも、お聞きの通り、私はそんな気はさらさら無くて、お断りしたんで大丈夫です」
よかった。落ち着いてきた。
「まあ、俺も南原さんにはうちの仕事は物足りないんじゃないかって感じる時はあるから、もし気が変わったら、その時は早めに相談してくれるかな?」
「えっと……それは、私がここをやめる時、ということでしょうか?」
「ああ。そうだね。残念だけど、キャリアアップを求めて挑戦したいという人材を留め置く権利は俺にはないからね。もしも、そういう時は、って仮定の話だけどね」
気まずそうに笑う滝岡社長に胸が苦しくなる。
ここへの就職は、たっちゃんが私に向いてるからって探してきてくれた大切な思い出の場所だ。私が離れるはずがない。
だけど、板倉に苛立つ気持ちや、滝岡社長の優しい言葉、何よりたっちゃんが私にかけてくれていた期待……それらが、コンペに挑戦する原動力をくれた。
「あの、お願いがあるんですが」
私の言葉に、社長は眉をしかめて目を瞑った。
「心配しないでください。辞めるとかじゃないです。ただ……仕事とは関係のないデザインをする許可をいただけませんか?業務には支障をきたさないよう注意します……でも、もしかすると社長や柏木さんにご迷惑をおかけしてしまうかも……」
「何をするのか聞いてもいいですか?」
柏木さんの目は社長とは違い、好奇心が隠しきれないといった感じだった。
「博覧会のデザインコンペに参加しようと思うの」
柏木さんの瞳が輝いた。
「ええ!すごい!すごくないですか?社長、応援しましょうよ、ね!」
意外だったのは滝岡社長もまた、目を輝かせ、私を見つめていたことだった。
「素晴らしい挑戦だと思うよ。仕事を減らすことは出来ないけど、南原さんの分もこうして柏木が頑張ってカバーしてくれるみたいだから、柏木の成長にも繋がるね」
「もうっ、社長!人使いが荒いです!」
恐れていた気持ちが一気に吹き飛んだ。
私は私の名前で、もう『貴島 万里江』ではなく、『南原 万里江』としてコンペで闘いたい。
誰にも負けたくない。
たっちゃんが褒めてくれた私の絵を、より多くの人に見てもらいたい。
それがたっちゃんが私に望んでくれていたことだよね?
私はたっちゃんが、私にして欲しいと思っていたことをしたい。
たっちゃん……見ててね。
どっと疲れて、足がだるい。
玄関に着くなり、どさっと倒れ込んだ。
「はぁ~、もう無理」
大したことはしていないのに、すごく疲れを感じるのは、精神的に参っているせいだろうか。
「よっこらしょ」
掛け声がないと動くことすらできない。
今日も買って来たお弁当を電子レンジに入れたら、チャイムが鳴った。
音を立てずに玄関に向かう。
あまりに疲れているから、居留守を使おうと思っていた。
『万里ちゃん』
母の声が聞こえる。
『開けてくれないかしら、達夫さんに……お線香だけでも……』
仕方なく扉を開けた。
「ごめんなさいね、連絡もせずに来てしまって。万里ちゃんに断られたらって思うと怖くて電話できなかったの……」
「いいよ、上がって」
母は百貨店の紙袋から包みを出して仏壇に並べた。
それからロウソクに火を点け、線香を立てると手を合わせた。
「遅くなって申し訳ありません。ずっと、お礼を言わなくちゃと思っていたのに、なかなか動けずに……情けない母親で申し訳ありません」
母はぽつりぽつりと呟いた。
「万里ちゃんの父親が失礼なことをして申し訳ありません。私と万里ちゃんを庇っていただき、その節は本当にありがとうございました」
たっちゃんに話しかけると言うより、私に言っているようだった。
「万里ちゃんがこうしてまた話せるようになったのも、達夫さんのおかげです。私にはどうすることもできなくて……本当、母親失格ですね」
母が肩を震わせている。
「お母さん、どうしたの?」
母の背中はこんなにも小さかっただろうか。
母はゆっくりと振り返ると、ハンカチで顔を押さえながらこう言った。
「パパのところを出てきたわ」
「え?」
「私はこれまでパパを支えることが妻としての私の務めだと思ってやってきたの」
「うん」
「だけどパパにはそれは当然のことで、私の努力とか苦労とか少しも分かってくれようとしなかった」
「うん」
「それでも私には他に選択肢は無かったし、これまでやってこられたんだから、これからもそうしていくつもりだったのよ」
母の涙は止まり、目には怒りが宿っていた。
「万里ちゃんに内緒でね、達夫さんに会ったことがあるの」
「え?」
「黙っててごめんね。万里ちゃんの様子が気になって、近くまで様子を見に来たことがあってね、その時、達夫さんに見つかってしまったの。会ってやってくれって頼まれたんだけど、私、万里ちゃんに合わせる顔がなくて……」
「そうだったんだ」
「達夫さんね、近くの喫茶店に誘ってくださってね、二人でコーヒー飲みながらおしゃべりしたのよ」
知らなかった。たっちゃんは私には何でも話していると思っていた。
「達夫さんから万里ちゃんの話をたくさん伺ったわ。ああ、もう万里ちゃんの心配は要らない。万里ちゃんは幸せになったって思って、安心してたのよ」
「うん」
嬉しかった。結婚を反対されていると思っていたから、母だけでも認めてくれていたんだと知って、涙が滲んだ。
「だから……まさか……達夫さんが……」
言葉に詰まり、母は泣き崩れた。




