2,マリエとの出会い
ブーブーブー
アラームかと思いスマホを手に取った。
4:45
「なんなんだよ、こんな時間に」
ムカッとしたが、この知らない番号の相手が俺には分かった。
「もしもし」
『……』
「こんな時間に非常識じゃないですか?」
無言の相手に怒る気も失せてくる。
「マリエだろ?」
ノートの裏表紙に小さくカタカナで書いてあった。
あの『はっ』と息を飲むような絵を描くアーティストの名だ。
「ノート返して欲しいんだろ?」
『……』
電話が故障しているのだろうか。どうして何も言わない?
「君の住所を聞く気はない、届けに行くのは面倒だから。俺の住所を教える気もない、来られても困るしな。でだ……どうすればいい?」
こう聞かれて答えない奴はいないだろう。
こんな時間に電話を掛けてきたんだ、ノートが必要なんだろう。
『え……と……』
かろうじて聞こえてくる返答に、スマホの故障ではないことが確定した。
「どうしたらいい?」
見た目が幽霊のようだと間宮さんが言っていたが、しゃべり方もまるで幽霊だ。
沈黙の不快感を堪え、相手がしゃべるのを辛抱強く待った。
『返して……』
これじゃ、まるで俺がノートを返さない悪者みたいじゃないか!
「じゃ、落とした場所、分かるか?停電のあった電信柱だ。置いておくから、取りに来い」
プツッ
切れた。
なんなんだよ!
人の親切を無下にしやがって!
こんな朝っぱらから、非常識な幽霊の相手をしてやったっていうのに!
腹立たしくはあったが、どこか心配な面もあって、俺は二度寝が出来なかった。
時間を指定しなかったのは失敗だった。
着信履歴から折り返すことも考えたが、俺はどうにもマリエと話す気になれなくて、こうして車に乗ったまま電信柱をぼうっと眺めている。
だって、俺がノートを置いた後に、誰かが……例えば犬の散歩をしている小学生とかが持って行ったら困るからだ。
俺がノートを取ったと思われるのは、まっぴらごめんだからな。
出勤までは時間がある。
どうせ家に居てもやる事なんてないんだ。
運転席のシートを倒し、煙草に火を付けて電信柱に立て掛けたノートを眺めていた。
さわさわと心地よい秋風が草木を揺らす。
台風が近づいているらしいが、どうか被害を出さないでくれよと、心の中で祈る。
「なっ!」
ずっと見ていたはずなのに、いつの間にか女が現れ、電信柱の隣に立っていた。
俺は何も考えず車から降りてしまった。
なるほど……間宮さんの言いたかったことが今、理解できた。
煙草をふかしながらマリエに近付く。
「ちゃんと返したからな」
優しく言ったつもりだが、マリエはビクッと体を震わせた。
「わりぃ、驚かせるつもりじゃなかった」
怖いもの見たさって言うのかな、俺は好奇心を抑えきれなかったのだと思う。
マリエに近付き、その顔を見てみたいと、少しかがんで覗き込んでみた。
真っ直ぐに伸びた黒い髪が顔を隠しているが、綺麗な目鼻立ちの美しい女性だった。
「お礼くらい言えば?」
無視され続けることに腹が立ち、少し語気が強かった。
「あ……の……どう……も」
俺の方を見ようとしているのだろうが、焦点がさっぱり合っていない。
俺を通り抜けてどこか遠くをぼんやり見つめる目には、覚えがあった。
その目は、病室で伏せっていた父を思わせた。
俺は学がないし、口下手なところがあるから、正しい表現かは自信がないが、おそらく『失意』とか『絶望』とかが当てはまるんじゃないだろうか。
「大丈夫か?」と、思わず口にしていた。
遠くを見つめたまま、うんともすんとも言わないマリエ。
「お前が描いたんだろ?」
ノートを指さして聞いてみた。
「まあ、どうでもいいか。俺みたいな素人に褒められても何の足しにもならないだろうけど、その絵、すげえ良いって思ったよ。なんか、脅かしてごめんな?マリエが……その絵を描いてる奴がどんなか見てみたくなって、待ち伏せなんて気持ち悪いことしてすまなかったな」
急に気恥ずかしくなって、くるっと背を向け車に向かう。
煙草の吸殻を放り投げ、運転席に乗り込んだ。
そろそろ出社の時間だ。
シートベルトを締め、車のエンジンをかけた。
「え……なに?」
助手席のドアの前にマリエが立っていた。
彼女はおもむろに助手席のドアを開け、俺が捨てた煙草の吸殻を投げつけてきた。
……頭が混乱している。
いったい、どうしてこうなったんだ?
助手席にマリエを乗せ、会社の近くまで来てしまった。
「あのな……なんで乗った?なんで何もしゃべらない?」
俺は困り果てている。
大事そうにノートを胸に抱き、マリエは助手席に座ったまま、だんまりを決め込んでいる。
「俺、仕事あんだけど?」
エンジンを切ってマリエを覗き込む。
相変わらず、靄がかかったような覇気のない目をしている。
「ずっとこうしてるつもりか?俺は夜まで戻って来ないぞ」
動かないんだから仕方がないじゃないか。
俺は車のキーを挿したまま、その場を離れるしかなかった。
ところが仕事中も外の車が気になって、ちょこちょこ窓から駐車場を確認してしまう。
食事は?トイレは?熱中症になってないか?
(もう……!)
煙草を持って休憩に行く途中、自販機で麦茶を買った。
どうして俺があんな女に付き纏われなきゃならないんだ。
イライラしながら車の運転席のドアを開ける。
もわぁっと広がる熱い空気……
「エアコンくらい自分で入れろよ!」
そう怒鳴って、マリエの前にペットボトルを差し出す。
彼女が受け取ろうとしないので、俺はそのまま太ももに置いた。
「まだ仕事が残ってるけど、どうしても帰りたければ、午後は休んで送ってやるよ。電信柱の所でいいか?」
どうせ返事はないものと、適当に言っただけだった。
が……
ゆっくりと頷くマリエ……
なんだよ。
帰りたいのかよ……
「ほら、着いたぞ」
体調不良と言ったら、必要な手続きは後でいいから、さっさと帰って休めと上司に言われた。
こき使っている自覚があるのだろう。
滅多に休みを申請しない俺だから、許されたのかもしれない。
日頃の行いがいい証拠だ。
「聞こえてるか?降りろよ」
なのに……どうして……幽霊に憑りつかれるような悪行は働いてないはずなのに……
「なあ、どうしたい?」
ハンドルに腕を置き体重を預け、俺はマリエに声をかける。
まじまじと見ると、本当、日本人形のような顔立ちだ。
表情がないのが更にその雰囲気を強くしている。
「家はこっちか?」
頷いてくれることを期待して、通りを指さす。
「じゃ、あっちか?」
返事がないので、反対方向を指さす。
「参ったな」
ふぅっと鼻から大きく溜め息をつき、煙草を取り出してから引っ込めた。
「あのさ、吸ってもいい?」
一応、確認のため……
マリエは首を微かに横に振った。
駄目なのかよ。
「俺、家に帰りたいんだけど」
煙草も吸えないし、せっかく取った半休をこうして車に閉じ込められてるだけなんて、惨めになってくる。
頭を搔きむしり、マリエを追い出そうと決心した。
助手席のドアを開けて、彼女を引きずり下ろせばいい。
簡単だ。俺の車だ。そもそも彼女は知り合いですらないんだ。
そう思って、覚悟を決め、助手席に目をやると……
マリエがこっちを見ていた。
「え?なに?」
正面から見るマリエは息をのむほど美しかった。
「あのさ、降りてくんないか?俺、帰りたいんだ」
ゆっくりと頷くマリエ。
そうか、ようやく伝わったか。
「……」
しばらく待つが、降りる様子はまるでない。
シートベルトを外してやろうと手を伸ばす。
金具が外れ、シュルっと巻き込まれるベルトを掴むと、マリエはまたそれを自分に巻きつけシートベルトを装着した。
「帰りたくないのか?」
「……」
「もしかして、俺んち来るつもりか?」
「……」
やや間があって、マリエは小さく頷いた。




