13,万里江の過去
家に明かりは灯っていない。
玄関に靴もなかった。
急いで二階に上がり、万里江を呼ぶ……
返事はなかった。
絶望的な気持ちになり、階段を降りていると、外で車が停まる音がした。
玄関の引き戸を開けると、タクシーが停まっていた。
料金を支払い降りてくる万里江。
「お帰り」
「あ、たっちゃん、ただいま」
焦りを感じさせないよう、平静を装う。
「俺も今、帰ってきたところなんだ。もしかしたら万里江を駅で見たかもしれないな、俺、歩いて帰ってきちゃったんだけど」
万里江の変化をそれとなく窺いながら、恐る恐る探りを入れた。
「そうだったんだ」
「どこで飲んでたんだ?クライアントって初めて会う人だったのか?」
ひょいっと身を翻し、万里江は靴を脱いで玄関を上がった。
束縛をしたいとか、ましてや疑っているとかそんなんじゃない、ただ気になって仕方がなかった。
「……んと、今度、話す」
歯切れの悪い万里江の返事に眩暈がした。
「ああ」
駄目だ。こんなじゃ。
プロポーズをしなくちゃ。
万里江と結婚しないと。
こんなのは耐えられない。
車を会社に置いてきてしまったので、今朝は万里江と駅まで歩いて出勤する。
「電車通勤も悪くないかもな」
空気は冷たかったが、スカッと晴れた空から差し込む日差しに温もりを感じる。
手袋をした手を万里江と繋いで歩く。
この状況に、俺は年甲斐もなく浮かれていた。
万里江の全てを手に入れることなんて出来ない、だけど、こうして俺との時間を大切にしてくれているのは事実だからな。
プロポーズすると決めてから、迷いは消え、俺は未来を見ていた。
とは言え……
高級な指輪を一人で買いに行く勇気は持ち合わせておらず……
「小竹さ、帰り付き合ってくれないか?」
「今日も飲みに行くんすか?」
「いや。ちょっと買い物に……お前さ、指輪ってどうした?」
ポカンと口を開け、小竹は間の抜けた顔をしている。
「先輩、プロポーズするんっすか?」
「まあな。お前に言われたからじゃないけど、俺もそろそろ身を固めたくなったって言うか」
「へえ~、で、指輪を買おうと?」
「そんなとこだけど、なんだよ、変か?」
「いや、別に変じゃないですけど、先輩ってば人が変わったみたいっす」
そうだろうか?
彼女が居たことが無かったから、確かに万里江と付き合いだしてからの俺は、『初めてづくし』ではあるが……
「頼むよ。小竹が何買ったか教えてくれないか?」
「もちろんっすよ!」
「ここっす!彼女が言うには、このブランド品を嫌いな女はいないんだそうっす」
「へえ」
煌びやかな内装なのに、シンプルな制服の女性スタッフがにこやかに応対してくれる。
「どうぞこちらへ」
案内されたソファはふかふか過ぎて、ひっくり返るかと思った。
「いくつかお持ちしますので、直接お手に取って見てくださいね」
そう言ってスタッフが離れて行った。
「先に予算言っておかないと、とんでもなく高いの持って来るから気を付けた方がいいっすよ」
小竹が脇にあったカタログを手に取り、パラパラと見始めた。
不意に俺は固まった。
なんだろう……この既視感は……
「ちょっとそれ貸して」
小竹からカタログを受け取る。
どうにも、万里江が作ったようにしか思えなかった。
こんなに凄い仕事をしていたのか……
店員が再びやって来て、俺の前に指輪を並べる。
どれも美しいが、もう俺が選ぶより万里江に決めてもらえばいいんじゃないかと思い直していた。
「すみません。今度、彼女と来ます。このカタログ、頂いて帰っていいでしょうか?」
「はい。どうぞ。またのご来店、お待ちしておりますね」
俺たちは何も買わず店を後にした。
「お帰り、万里江」
俺が先に帰っていたので、夕飯を作って待っていた。
「良い匂い」
「豚の生姜焼きにした」
にっこりと笑い、俺達はちゃぶ台に向かい合って座った。
自然な感じで進めよう。
焦りは禁物だ。
自分に言い聞かせる。
みそ汁を一口啜ってから、話し始める。
「小竹が彼女にクリスマスプレゼントを贈るって言っててさ」
「へえ」
「このブランド品を嫌いな女はいないんだって言ってたんだけど、万里江も好きか?」
座布団の下に隠してあったカタログを取り出した。
「あ!これ!」
ばっと万里江の手が伸びてきて、カタログを手に取った。
嬉しそうにパラパラと捲っている。
「懐かしい……初めて携わった大きな仕事なの」
「やっぱりそうか。なんとなく万里江っぽさを感じて、持って来たんだ」
以前は、大手のデザイン会社に所属していたと聞いているが、それ以上のことは知らない。
本人が話したがらないので、俺は敢えて聞かなかった。
だが、今は少し状況が違う。万里江と駅に居た男は板倉だった気がするのだ。だから、前職のことが気になって仕方がない。
「どうして辞めたんだ?」
それとなく口にしたつもりだったが、万里江の手が止まり、禁句だったかもと反省した。
カタログを脇に置き、万里江はテレビを付けた。
民放で特番が放送されており、それはこの冬に行われる大規模なスポーツイベントを紹介するものだった。
話をはぐらかされてしまったことに落胆はしたが、きっと聞かない方がいいこともあるのだろう。
俺は気を取り直して、生姜焼きを白飯に乗せてかき込んだ。
「このイメージ私が作ったの」
「ん?」
飯が口いっぱいに入っていて、しゃべれなかったから、箸でカタログの方を指した。
「ううん。このカタログもだけど、このイベントのイメージデザイン」
「あ?」
数年に一度しか開催されない、世界的な大会だぞ?
「これを?」
このロゴなら、至る所でしょっちゅう見ている。超有名なやつじゃねえか。
「そう。勤めてた会社でコンペに参加して、もちろん私一人の力じゃないけど……」
「言われてみれば、万里江っぽくもあるけど……ん?ちょっと違うような……」
「そうなの。私のデザインでコンペに通って採用されたんだけど、デザイナーを板倉の名前に変更して世に出すって言ってきて」
「それって……」
「私はそれが許せなくて、猛抗議をしたの」
万里江は怒りに震えているのか、握った拳をぶるぶるとさせていた。
「結局、私の主張は通らなくて、私はデザインデータをUSBに入れて持ち出し、会社のパソコンからオリジナルデータを消したの」
それはやったらダメなやつだと、素人の俺にだって想像がつく。
「この前、駅前で、見たんでしょ?私と板倉が居るところ」
「ああ」
「正直に言わないでごめんね。板倉に、私がした事を今の会社に報告するって言われて、せっかく上手くやれてるから、滝岡社長や柏木さんには知られたくないなって」
万里江が目に涙を溜めて俺を見ている。
「ううん……本当は、たっちゃんにだけは知られたくなくて……」
両手で顔を覆い、俯いて泣いている。
「何でだよ?俺が知ったら、万里江のこと嫌うとでも思ったのか?」
「そうじゃないけど……幻滅されたくないなって……」
「幻滅なんてするわけないだろ?そりゃ、社会人としてやっちゃダメなことではあるけど、それくらい誇りを持ってたってことだよな?万里江より、板倉の方が百倍悪いじゃないか」
万里江の近くに移動して、背中から包み込む。
ああ。
あの日、タクシーから降りてから、黒い感情が胸につっかえてたのは俺だけじゃなかったんだな。
「ごめんな」
「どうして、たっちゃんが謝るの?」
「万里江に苦しい思いをさせたからだ」
「たっちゃんのせいじゃないよ、私が悪いの」
涙に濡れた万里江に唇を重ねる。
遠慮がちに応えてくれる彼女の唇が愛おしくてたまらない。
「万里江、俺と結婚してくれないか」




