12,不安の影
万里江が株式会社ティー・ヴェルスの正社員として働き始めて、そろそろ3ヵ月が経つ。
俺と万里江の関係はすこぶる良好で、毎晩のように愛を確かめ合い、その都度、愛が深まっていくのを実感している。
万里江の仕事も順調で、広告のデザインのみならず、パッケージのイメージ戦略やらホームページの刷新やら、いろいろと手がけているらしい。
俺も彼女のことについて、いろいろ分かってきた。
まず、年齢は29歳だ。誕生日はまさかの大晦日で、もうすぐ30歳になる。
化粧っけがなく若く見えていたが、大学を卒業後、父親のコネで入った会社で社会人をやっていたそうだ。
板倉という元フィアンセは、その時の会社の同僚で、これまた父親に勧められた縁談を断れずにいたらしい。
ただ、ここに関しては万里江の口ぶりから、全くのホワイトな関係ではなかったのではないかと俺は疑っている。
当時は、付き合っていたとしてもおかしくない……というのも、俺は一度その板倉を見てしまった事があるのだ。
背が高くスーツが似合い、イケメンで笑顔が爽やか、社会的地位もサラリーも俺なんかよりよっぽど高い……いわゆる『非の打ちどころがない男』だったのだ。
正直、板倉を見た後は、自信を喪失し、万里江と会うのが恥ずかしく感じたほどだ。
「たっちゃん、そろそろ出よう?」
支度を終えた万里江がにこやかに笑っている。
「ああ」
毎朝、俺の車で万里江を送っている。
「今日は私、クライアントと会食だから、夜は一人で食べてね」
「そうだったな。迎えに行こうか?」
「いいよ。ビール飲んで先、寝てて」
「つれないな」
会話もこの通りスムーズだ。
詳しくは知らないが、前職で揉め事があったらしい。それがトラウマとなり、万里江は心を壊し、退職後、実家で養生していたという。
過去に辛いことがあったのは悲しいことだが、それが無ければ俺たちは出会っていないのだと思うと複雑な気持ちになる。
「おはようございます、先輩」
「おはよう、小竹」
メールをチェックしながらちらっと目線をやり挨拶を済ませた。
「先輩、今日、飲みに行きませんか?」
春にバディを組んでから、こいつの誘いはもう百回を超えているかもしれない。
「そうだな」
「ですよね、また誘います……って、え?」
「行くか」
「えええ!」
一度も応じたことが無かった誘いに、行ってみようかという気になった。
今夜は万里江もいないし、小竹と飲むのも面白そうだ。
俺のまさかの返答に、言葉を失っている小竹……なんつー顔をしてるんだ。
「アホ」
「ヒド!先輩、酷いですよ!」
やけにニヤニヤしながらどついてくる小竹は可愛い後輩だ。
「乾杯!」
小竹が元気にジョッキを掲げ、俺はカチンと合わせた。
「いやー、まさか先輩が俺の誘いに応じてくれるなんて、マジで嬉しいっす」
「そうか?毎日、顔会わせて仕事してんのに、仕事終わってまで会いたいか?」
「それはそれ、これはこれっす。仕事中じゃ話せないこともあるじゃないっすか」
「なんだよ、話せないことって」
「恋バナっすよ」
ぶはっ。
気管にビールが入った。
ゲホゲホ。
「先輩、動揺しすぎっす。落ち着いてくださいよー」
「ったく。お前のノリに付いていけないよ」
駅中にある居酒屋で、唐揚げやら枝豆やらを適当に注文した。
「俺、こう見えても割と情報通なんすよ。先輩、あの美女と付き合ってるんですよね?」
「どうせ間宮さんネタだろ?」
頬が緩んでしまうのを一生懸命堪えた。
「照れないでくださいよ。俺にも話してくださいっす。先輩の恋バナ聞かせてくださいよ」
こんな経験は生まれて初めてで、一体、どう話せばいいのやら……
「まあ、仲良くやってるよ」
「うわぁ!はず!なんか俺がはずい!」
小竹が両手で顔を覆って騒いでいる。
「うるさいよ、小竹、少し声落とせ」
俺も汗が粒になって吹き出してくるのが分かる。恥ずかしくてたまらない……
「一緒に住んでるって本当っすか?」
「まあな」
「じゃあ、結婚するんすか?」
「さあな」
まだ付き合って間もないし、先のことは正直考えていなかった。
「早くプロポーズした方がいいっすよ」
「何でだよ」
「俺の彼女がいつも言ってるんすよ。『タイミング逃すと、いつまでもズルズルとこのままよ』って」
「タイミングは人に寄るだろ」
「早い方がいいらしいんすよ。人はこう、最初に『好きだー』ってゲージが上がって、後はだんだんと下がっていく一方らしくて、上り調子の時にプロポーズしないとダメなんですって。下がり始めてからじゃ遅いって彼女が言うんすよ」
「へえ」
小竹が言わんとしていることは分からないでもないが……
「で、お前は?」
「俺っすか?」
「彼女にプロポーズすんのか?」
いじられて恥ずかしい思いをさせられた仕返しのつもりだった。
「はい。クリスマスイブにします」
「へ?」
照れずに、なんなら業務連絡のように平然と小竹が言ってのけた。
「お前、結婚すんの?」
「はい。彼女がオッケーしてくれたらっすけど」
「すげえな」
万里江を守りたいとか、ずっと一緒に居たいとか、おれだって本気で思ってはいるが、結婚ね……
「先輩もどうっすか?俺、絶対にフラれない方法知ってますよ」
「なんだと?」
「これは、俺の兄ちゃんが教えてくれたんすっけど」
小竹が急に声を潜め、テーブル越しに顔を近付けてきた。
(ごにょごにょごにょ)
耳打ちするほどのことでもなかったが、なるほど、それもそうか。
要約すると、小竹の彼女が言っているのと同じ内容だ。
『鉄は熱いうちに打て』的なこと……
つまり、ずっと一緒に居たかったら結婚は当然の流れであり、結婚したければプロポーズは必須なわけで、プロポーズのタイミングは燃え上がっている最中がよいと……
だいぶ酔いが回ってはいるが、俺の理解が正しければ『今』ということか。
さすがに今日帰って『結婚しよう』とは言えないが、クリスマスイブね。
約3週間後。
その1週間後には万里江の誕生日。
『南原 万里江』として誕生日を迎え、年を越す。
いいんじゃないだろうか?
「うー、さぶっ」
さっきまでのほんわかした気分が一気に吹き飛んでしまった。
車は会社に置いてきたので、久しぶりに電車を利用する。
最寄駅から家までは歩くと20分くらいかかる。
歩けない距離ではないが、タクシーを捕まえようか迷いながら、改札を抜け、タクシー乗り場を確認すると、短い列が出来ていた。
「ん?」
一瞬、万里江かと思ったが、すぐ隣に男性が居たので見間違えたのだと目を逸らした。
俺の心臓が大きく暴れるが、俺はそれを無視した。
万里江のはずがないじゃないか。
今日はクライアントと会食だろ?
きっと、あの男性はクライアントだろ?
俺はひたすら下を向いたまま、歩調を早めた。
きっと万里江はもう帰っている。
お風呂に入って、横になっているかもしれない。
だが、俺がどんなに説得しても心臓が認めてくれない。
違和感を訴え、暴れまわる。
やめてくれよ。
胸を強く押さえた。
万里江にだって付き合いがある……あいつは最近、人見知りもしなくなったし……仕事の付き合いなんだから……
頼むよ。
俺の中で暴れるな。
鼓動が早いのは俺が早歩きをしているせいだ。
家に帰れば、万里江の顔を見れば、勘違いだって分かれば、落ち着くだろう。
そこの角を曲がれば俺んちが見える。




