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「人形のような妻だ」と離縁されたら、公爵家の縁談が全部壊れました  作者: 風音シエル


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第9話 看板を洗う夜

灰通りに公爵家の馬車が入ってくるのは、たぶん初めてのことだった。


 道幅がぎりぎりで、御者は轅を三度切り返して止めた。車輪は泥をかぶらないよう、外側を油で拭いてある。それが灰通りの土の上に降りた瞬間、車輪の下半分だけが灰色になった。


 通りの人が出てきて、遠巻きに立った。ハウザーさんも桶を持ったまま出てきて、そのまま持っていた。


 降りてきたのは、ヴィオラだった。


 髪の結い方が変わっている。額を出す形にして、耳の上に細い編みを回している。三年半前にはしていなかった。頬に薄く紅を入れて、目の縁にも色を置いている。


 骨は、変わっていない。


「あら」


 彼女はまず看板を見上げた。文字は流れたままで、「ヴェ」と「工」しか読めない。


「これ、看板のつもり?」


「はい」


「読めないわ」


「読めなくてけっこうです」


 ヴィオラは笑った。声を出して笑う人だ。笑うと左の口角が先に上がる。


    ◇


「お義姉さま、お手紙、読ませていただきました」


 彼女は工房の中まで入ってきて、土間で止まった。板の間には上がらない。上がらないというより、上がりたくないのだと思う。


「お父さまが、ずいぶんご立腹でしたわ。承知しました、盛りませんので、ですって」


「はい」


「あれ、返事になっておりませんでしょう」


「なっていると思います」


「なっていませんわ」


 ヴィオラは工房の中を見回した。棚の彫りかけ、床に敷いた木屑、乾かしている材。上等なものは何もない。


「本当に、こんなところでお仕事なさっているのね」


「はい」


「わたくし、心配しておりましたのよ。お義姉さま、屋敷ではずっと奥の部屋にいらしたでしょう。外の暮らしをご存じないから」


 彼女は本気で言っていた。悪意でそう言う人の目の動かし方ではなかった。


 この人はたぶん、自分が親切なつもりでいる。


「ご心配をおかけしました」


「いいえ。——ああ、そうそう。これ」


 ヴィオラは連れの侍女に合図をした。侍女が革の巻きを取り出す。


 母の彫刻刀だった。


「お返しに来た、と申し上げたいところなのですけれど」


 彼女は巻きをほどいた。


 七本のうちの、細身の四本。刃先が、白く欠けている。三本は先端が丸くなり、一本は途中の刃筋が波打っていた。


 わたしは、それを見た。


「使いにくいのですわ、これ」


「……」


「刃が薄すぎて、力を入れるとすぐこうなりますの。お義姉さまのお母さま、よくこんなもので彫っておられましたわね」


「力は、入れません」


「え?」


「その刃は、押すのではなく、引いて使います。木の目に沿って、刃の重さだけで」


 わたしは自分の手を見た。言っても仕方のないことを言っている。


「引くと、進みませんでしょう」


「進みません。進まないので、何度も引きます」


「まあ、気の長いこと」


 ヴィオラは巻きを閉じて、侍女に返した。


 返された侍女が、一瞬、こちらを見た。


 その侍女の顔にも、わたしは見覚えがあった。三年半、屋敷の廊下で毎日すれ違っていた。


    ◇


 帰りぎわ、ヴィオラは看板の下で足を止めた。


「お義姉さま、ひとつだけ」


「はい」


「来月、わたくしの人形が三体、お披露目になりますの」


「さようでございますか」


「ゼルテンさまのご縁談と、それから二つ。……お義姉さまがいらした頃より、評判はよろしいのですって」


「それはよろしゅうございました」


 ヴィオラは、それを聞いて、少し黙った。


 言い返されると思っていたのだと思う。言い返されない人と話すのは、たぶん初めてなのだろう。


 彼女は侍女の持っていた油差しを取った。馬車の車輪に差すための、黒い油だ。


 そして、それを看板にかけた。


 油は木に染みた。もともと文字の読めない板だ。読めない板が、黒くなっただけだった。


「読めない看板なら、汚れても同じでしょう」


 通りの人が、息を止めたのが分かった。


 わたしは看板を見上げた。


「はい」


 ヴィオラは、こちらの返事を待たずに馬車へ乗った。


    ◇


 日が落ちてから、脚立を出した。


 油は水では落ちない。竈の灰を掬って、少量の水で練り、それを布に取って、木目に沿ってこする。逆らってこすると、木の繊維の隙間へ油を押し込むことになる。落とすつもりで、かえって奥へ入れてしまう。


 一度こすったら、すぐに流す。灰を残すと、今度は灰が染みになる。


 三度やって、ようやく色が薄くなった。それでも、染みは残った。木の中まで入ったものは、もう出てこない。板を裏返して、内側から削るという手もあるが、この板は薄い。削れば、割れる。


 脚立の上は、風があった。灰通りは川に近いので、日が落ちると空気が下から冷える。手がかじかんで、布を絞る力が落ちた。


 絞りきれなかった水が、袖を伝って、肘まで来た。


 桶の水を替えに井戸へ行くと、ニナがついてきた。


 ずっと黙っている。工房を出てから一度も口をきいていない。


「ニナ」


「……なんですか」


「桶を持ってくださいますか」


 ニナは桶を持った。持って、それから、それを地面に置いた。


「なんで何も言わないんですか」


 声が高かった。


「あの人、油かけたんですよ。あなたのお母さんの看板に」


「はい」


「はい、じゃなくて」


 ニナの手が震えていた。震えているのを見られたくないらしく、その手を後ろに回した。


「言い返せばいいじゃないですか。あの人、刃だってこぼしてました。彫れないんですよ、あの人。それ、わたしでも分かりました」


「分かりましたか」


「分かりますよ。四本ですよ。四本ともです」


 わたしは井戸の縁に桶を掛けた。


 縄が古い。母がいたころのままだ。そろそろ替えないと切れる。


「ニナ」


「なんですか」


「わたしが今日ここで言い返していたら、通りの人は何と言ったと思いますか」


 ニナが黙った。


「離縁された前の妻が、屋敷の娘と灰通りで言い争っていた、と言ったでしょうね」


「……」


「言い返さなければ、こう言います。——公爵家のお嬢さまが、わざわざ灰通りまで来て、看板に油をかけて帰った」


 水が満ちた。


 わたしは桶を引き上げた。腕にくる重さは、七年前と同じだった。


「どちらのほうが、遠くまで行くと思いますか」


 ニナは答えなかった。


 答えないまま、桶のもう片方の縁を持った。二人で運ぶと、水はほとんどこぼれなかった。


    ◇


 工房へ戻る道で、ニナは一度だけ、こう言った。


「あの人、車輪の外側だけ拭いてましたね」


「気づきましたか」


「上のほうだけ綺麗で、下が泥だらけでした。ここに来るまでは、あれ、綺麗だったんですよね」


「そうでしょうね」


「じゃあ、うちの通りが汚したんですか」


「うちの通りに、油を差しに来られたのですから、おあいこかと」


 ニナは、少しだけ笑った。


 笑ってから、笑ったことに腹を立てたような顔をして、また黙った。


    ◇


 その夜、看板を掛け直した。


 染みは残ったが、輪郭は戻った。ニナが下から見上げて、「曲がってます」と言った。直した。「まだ曲がってます」と言った。もう一度直した。


 寝る前に、ニナが階段の途中で立ち止まって、こう言った。


「あの、さっきの」


「はい」


「遠くまで行くって、どこまで行くんですか」


「存じません」


「知らないのに、ああいうこと言うんですか」


「はい」


 ニナは呆れた顔をして、上がっていった。


    ◇


 翌朝、ハウザーさんが桶を洗う前に工房へ来た。


 いつもの三言ではなかった。土間へ入ってきて、戸を閉めた。


「あんた、昨日のこと、もう聞いたか」


「昨日のこと、と申しますと」


「油じゃない」


 彼は帽子を取った。


「メルツのお嬢さんの人形だ。ゼルテンの縁談。——王都じゅうが、その話をしてる」

【今日の彫りおぼえ】細身の刃は押さない。引く。進まないので、何度も引く。


お読みいただきありがとうございます。


言い返さないのは、我慢しているからとはかぎりません。うちの主人公の場合は、どちらが遠くまで行くかを計算しているだけです。ただ、それを見ている側の子どもには、我慢しているようにしか見えません。


次話——ゼルテン家のご縁談が、初対面の日にどうなったか、というお話です。

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