第8話 老いた顔を、老いたまま
その人は、名を告げる前に椅子の位置を直した。
工房の椅子は客用の一脚だけが新しい。ニナがどこかから拾ってきたもので、脚の長さがそろっていない。座ると右へ傾く。だから客はたいてい浅く腰かけて、落ち着かないまま帰っていく。
その人は、まず椅子を持ち上げて、床の傾きの少ないところへ置き直した。それから座って、背をまっすぐにした。
四十半ばだろうか。喪の色ではないが、地味な仕立ての上着を着ている。襟元の留め具だけが古く、金の色が擦れて下地が出ていた。長く使っているものだ。
「ハイデマリー・ロートと申します。三年前に、夫を亡くしました」
「お悔やみ申し上げます」
「もう泣きません」
彼女はそう言って、膝の上で手を組んだ。爪が短い。指の付け根に、糸を扱う人の硬さがある。
「見合い人形を、お願いしたいのです」
「承知しました」
「四十六です」
「はい」
「相手は、五十二の織物商です。先妻を亡くして、子が三人おります。いちばん下がまだ十一で」
わたしは筆を取らなかった。相手の家の事情は、彫るときにいらない。いるのは目の前の骨だけだ。
だが、この人は話したがっていた。話しておかないと注文が言えない人が、ときどきいる。
◇
「それで、お願いなのですが」
ハイデマリーさまは、そこで一度、息を吸った。
「実際より、老けて彫っていただけませんか」
わたしは顔を上げた。
「老けて、でございますか」
「はい」
工房が静かになる、というほどのことではない。ニナは台所で豆を選っていたし、外では荷車が通っていた。ただ、わたしの手が止まった。
「理由をうかがっても」
「先方のお子さまがたが、警戒なさいます」
彼女は、組んだ手を少しだけ握り直した。
「後添えというのは、若く見えると、それだけで敵になるのです。財産を狙って入ってきた、と。……わたくし、そういう話を、三年のあいだに何度も聞きました」
「なるほど」
「ですから、実際より落ち着いて見えるほうが、皆さまのためかと」
皆さま、と彼女は言った。自分のため、とは言わなかった。
わたしは彼女の顔を見た。
頬の肉は落ちているが、頬骨の張りが強いので、輪郭はまだ支えられている。目の下の皮膚が薄く、そこだけ影が溜まる。眉の外側が下がっているのは骨ではなく癖で、長いあいだ困った顔をしてきた人につく形だ。
口元は、笑うと下唇のほうが動く。上唇はほとんど動かない。そういう笑い方をする人は、たいてい声を出して笑わない。
いい骨だと思った。
「頬骨の張りが、まだしっかりしておいでですね」
「……はい?」
「失礼いたしました。骨の話でございます」
ハイデマリーさまは、目を丸くした。
台所でニナが小さく笑った。
◇
「老けさせるには、二つやり方がございます」
わたしは彫りかけの木をひとつ台に置いた。説明のために出したのではなく、手に何か持っていたほうが話しやすいからだ。
「ひとつは、皺を彫る。もうひとつは、頬を落とす」
「では、そのどちらかで」
「どちらも、いたしません」
彼女は黙った。
「皺を彫りますと、そこにだけ影が集まります。人形は小そうございますので、皺は線ではなく染みに見えます。染みのある顔は、老いた顔ではなく、汚れた顔になります」
「……」
「頬を落としますと、いまお持ちの張りが消えます。張りが消えた顔は、老けるのではなく、痩せて見えます。痩せた顔は、病んで見えます」
わたしは木を置いた。
「どちらも、老いには見えません」
「では、どうなさるのです」
「そのまま彫ります」
ハイデマリーさまの眉が、また外側へ下がった。
「そのままでは、若すぎます」
「若くはございません」
「……あなた、失礼な方ね」
「申し訳ございません」
彼女は少しのあいだ、わたしの顔を見ていた。
それから、初めて笑った。下唇のほうが動く笑い方だった。声は出さなかった。
◇
この人の顔で難しいのは、目の下だった。
皮膚が薄いので、影が溜まる。そこを彫らずに逃げると、実際より若く見える。深く彫ると、疲れて見える。四十六の目の下は、若くもなく疲れてもいない、その中間にしかない。
中間は、いちばん彫りにくい。刃の入れ方でどちらにも転ぶので、決められる幅が狭い。わたしは三度やり直した。二度目までは削りすぎ、三度目でようやく止まった。
止めどころが分かったのは、彼女が椅子を直したときの手を思い出したからだ。傾いた椅子を持ち上げて、床の平らなところを探して、置き直した。あの手つきをする人の目の下は、あれ以上落ち込まない。
彫っているあいだに、ハウザーさんが二度来た。
一度目は箒の柄を替えに。二度目は用がないのに来て、土間に立ったまま、こんな話をした。
「通りの奥の研ぎ屋な。ここんとこ、上等な刃がよく来るそうだ」
「上等な、と申しますと」
「彫刻刀だ。細身の、上のほうのやつ。うちみたいな店じゃ扱わん」
わたしは手を止めなかった。
「刃こぼれがひどいらしい」
「こぼれ、でございますか」
「ああ。あの手の刃は、まっすぐ引けば減るだけでこぼれん。こぼれるのは、横に力が入ったときだ」
ハウザーさんは戸口の柱に寄りかかった。
「研ぎ屋が言うには、持ち込んだのは屋敷の使いで、四本まとめてだったと」
「……そうですか」
「四本まとめてこぼすってのは、なあ」
彼はそれ以上言わずに、帰っていった。
わたしは刃を布で拭いた。
母の彫刻刀は七本ある。七年使わずに置いてあったのに、こぼれているものは一本もない。研ぎ減りはしているが、それは減っただけだ。
道具は、使い方でしか壊れない。
◇
人形は九日で仕上がった。
ハイデマリーさまは受け取って、しばらく黙っていた。それから、こう言った。
「……老けておりませんね」
「はい」
「若くもありません」
「はい」
「これは」彼女は人形を持ち上げて、光のほうへ向けた。「これは、四十六ですね」
「はい」
彼女は人形を胸のところまで下ろして、両手で包んだ。
「四十六の顔を、四十六のまま人にお見せするのは、初めてです」
「さようでございますか」
「三年、鏡の前で若く見える角度ばかり探しておりました。そのあと、今度は老けて見える角度を探していました。……どちらも、同じことをしていたのですね」
わたしは答えなかった。
答えるべきことでもなかったし、この方はもう自分で答えを言っていた。
◇
返事が来たのは、三週間後だった。
織物商の返答は、こうだったという。
——この方となら、これから一緒に年を取れる気がします。
ニナがその手紙を読み上げて、天井を見た。
「あの、これ、うまくいきすぎじゃないですか」
「そうでしょうか」
「壊れたり、まとまったり、忙しいですよ、この工房」
ニナは手紙を棚に立てかけた。最初のお客のミレナさまの手紙の隣で、二通目になった。
そのとき、外で足音が止まった。
工房の前だ。一人ではない。三人か、四人。
ニナが窓のほうへ寄って、外を覗いた。
覗いたまま、動かなくなった。
「……どうかしましたか」
「あの」
ニナが振り向いた。
「馬車、うちの前に止まってるんですけど。すごく綺麗なやつが」
【今日の彫りおぼえ】皺は彫らない。小さな顔では、皺は線ではなく染みになる。
お読みいただきありがとうございます。
若く見せてくれ、と言われるのも、老けて見せてくれ、と言われるのも、頼まれる側からすると同じ仕事です。どちらも、いまの顔をやめてくれという注文なので。
次話——工房の前に、綺麗な馬車が止まりました。降りてきた方には、見覚えがあります。




