↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「人形のような妻だ」と離縁されたら、公爵家の縁談が全部壊れました  作者: 風音シエル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/45

第8話 老いた顔を、老いたまま

 その人は、名を告げる前に椅子の位置を直した。


 工房の椅子は客用の一脚だけが新しい。ニナがどこかから拾ってきたもので、脚の長さがそろっていない。座ると右へ傾く。だから客はたいてい浅く腰かけて、落ち着かないまま帰っていく。


 その人は、まず椅子を持ち上げて、床の傾きの少ないところへ置き直した。それから座って、背をまっすぐにした。


 四十半ばだろうか。喪の色ではないが、地味な仕立ての上着を着ている。襟元の留め具だけが古く、金の色が擦れて下地が出ていた。長く使っているものだ。


「ハイデマリー・ロートと申します。三年前に、夫を亡くしました」


「お悔やみ申し上げます」


「もう泣きません」


 彼女はそう言って、膝の上で手を組んだ。爪が短い。指の付け根に、糸を扱う人の硬さがある。


「見合い人形を、お願いしたいのです」


「承知しました」


「四十六です」


「はい」


「相手は、五十二の織物商です。先妻を亡くして、子が三人おります。いちばん下がまだ十一で」


 わたしは筆を取らなかった。相手の家の事情は、彫るときにいらない。いるのは目の前の骨だけだ。


 だが、この人は話したがっていた。話しておかないと注文が言えない人が、ときどきいる。


    ◇


「それで、お願いなのですが」


 ハイデマリーさまは、そこで一度、息を吸った。


「実際より、老けて彫っていただけませんか」


 わたしは顔を上げた。


「老けて、でございますか」


「はい」


 工房が静かになる、というほどのことではない。ニナは台所で豆を選っていたし、外では荷車が通っていた。ただ、わたしの手が止まった。


「理由をうかがっても」


「先方のお子さまがたが、警戒なさいます」


 彼女は、組んだ手を少しだけ握り直した。


「後添えというのは、若く見えると、それだけで敵になるのです。財産を狙って入ってきた、と。……わたくし、そういう話を、三年のあいだに何度も聞きました」


「なるほど」


「ですから、実際より落ち着いて見えるほうが、皆さまのためかと」


 皆さま、と彼女は言った。自分のため、とは言わなかった。


 わたしは彼女の顔を見た。


 頬の肉は落ちているが、頬骨の張りが強いので、輪郭はまだ支えられている。目の下の皮膚が薄く、そこだけ影が溜まる。眉の外側が下がっているのは骨ではなく癖で、長いあいだ困った顔をしてきた人につく形だ。


 口元は、笑うと下唇のほうが動く。上唇はほとんど動かない。そういう笑い方をする人は、たいてい声を出して笑わない。


 いい骨だと思った。


「頬骨の張りが、まだしっかりしておいでですね」


「……はい?」


「失礼いたしました。骨の話でございます」


 ハイデマリーさまは、目を丸くした。


 台所でニナが小さく笑った。


    ◇


「老けさせるには、二つやり方がございます」


 わたしは彫りかけの木をひとつ台に置いた。説明のために出したのではなく、手に何か持っていたほうが話しやすいからだ。


「ひとつは、皺を彫る。もうひとつは、頬を落とす」


「では、そのどちらかで」


「どちらも、いたしません」


 彼女は黙った。


「皺を彫りますと、そこにだけ影が集まります。人形は小そうございますので、皺は線ではなく染みに見えます。染みのある顔は、老いた顔ではなく、汚れた顔になります」


「……」


「頬を落としますと、いまお持ちの張りが消えます。張りが消えた顔は、老けるのではなく、痩せて見えます。痩せた顔は、病んで見えます」


 わたしは木を置いた。


「どちらも、老いには見えません」


「では、どうなさるのです」


「そのまま彫ります」


 ハイデマリーさまの眉が、また外側へ下がった。


「そのままでは、若すぎます」


「若くはございません」


「……あなた、失礼な方ね」


「申し訳ございません」


 彼女は少しのあいだ、わたしの顔を見ていた。


 それから、初めて笑った。下唇のほうが動く笑い方だった。声は出さなかった。


    ◇


 この人の顔で難しいのは、目の下だった。


 皮膚が薄いので、影が溜まる。そこを彫らずに逃げると、実際より若く見える。深く彫ると、疲れて見える。四十六の目の下は、若くもなく疲れてもいない、その中間にしかない。


 中間は、いちばん彫りにくい。刃の入れ方でどちらにも転ぶので、決められる幅が狭い。わたしは三度やり直した。二度目までは削りすぎ、三度目でようやく止まった。


 止めどころが分かったのは、彼女が椅子を直したときの手を思い出したからだ。傾いた椅子を持ち上げて、床の平らなところを探して、置き直した。あの手つきをする人の目の下は、あれ以上落ち込まない。


 彫っているあいだに、ハウザーさんが二度来た。


 一度目は箒の柄を替えに。二度目は用がないのに来て、土間に立ったまま、こんな話をした。


「通りの奥の研ぎ屋な。ここんとこ、上等な刃がよく来るそうだ」


「上等な、と申しますと」


「彫刻刀だ。細身の、上のほうのやつ。うちみたいな店じゃ扱わん」


 わたしは手を止めなかった。


「刃こぼれがひどいらしい」


「こぼれ、でございますか」


「ああ。あの手の刃は、まっすぐ引けば減るだけでこぼれん。こぼれるのは、横に力が入ったときだ」


 ハウザーさんは戸口の柱に寄りかかった。


「研ぎ屋が言うには、持ち込んだのは屋敷の使いで、四本まとめてだったと」


「……そうですか」


「四本まとめてこぼすってのは、なあ」


 彼はそれ以上言わずに、帰っていった。


 わたしは刃を布で拭いた。


 母の彫刻刀は七本ある。七年使わずに置いてあったのに、こぼれているものは一本もない。研ぎ減りはしているが、それは減っただけだ。


 道具は、使い方でしか壊れない。


    ◇


 人形は九日で仕上がった。


 ハイデマリーさまは受け取って、しばらく黙っていた。それから、こう言った。


「……老けておりませんね」


「はい」


「若くもありません」


「はい」


「これは」彼女は人形を持ち上げて、光のほうへ向けた。「これは、四十六ですね」


「はい」


 彼女は人形を胸のところまで下ろして、両手で包んだ。


「四十六の顔を、四十六のまま人にお見せするのは、初めてです」


「さようでございますか」


「三年、鏡の前で若く見える角度ばかり探しておりました。そのあと、今度は老けて見える角度を探していました。……どちらも、同じことをしていたのですね」


 わたしは答えなかった。


 答えるべきことでもなかったし、この方はもう自分で答えを言っていた。


    ◇


 返事が来たのは、三週間後だった。


 織物商の返答は、こうだったという。


 ——この方となら、これから一緒に年を取れる気がします。


 ニナがその手紙を読み上げて、天井を見た。


「あの、これ、うまくいきすぎじゃないですか」


「そうでしょうか」


「壊れたり、まとまったり、忙しいですよ、この工房」


 ニナは手紙を棚に立てかけた。最初のお客のミレナさまの手紙の隣で、二通目になった。


 そのとき、外で足音が止まった。


 工房の前だ。一人ではない。三人か、四人。


 ニナが窓のほうへ寄って、外を覗いた。


 覗いたまま、動かなくなった。


「……どうかしましたか」


「あの」


 ニナが振り向いた。


「馬車、うちの前に止まってるんですけど。すごく綺麗なやつが」

【今日の彫りおぼえ】皺は彫らない。小さな顔では、皺は線ではなく染みになる。


お読みいただきありがとうございます。


若く見せてくれ、と言われるのも、老けて見せてくれ、と言われるのも、頼まれる側からすると同じ仕事です。どちらも、いまの顔をやめてくれという注文なので。


次話——工房の前に、綺麗な馬車が止まりました。降りてきた方には、見覚えがあります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。