第7話 彫るな、という手紙
その週、工房には四人が来た。
二人は問い合わせだけで帰り、一人は日取りが合わず、一人は注文になった。パン屋の娘の見合い人形で、代金は銀貨十二枚。金貨には届かないが、木は買える。
問い合わせだけで帰った二人は、どちらも同じことを聞いた。盛ってもらえるのか、と。
こちらが盛らないと答えると、一人は「では結構です」と言って帰り、もう一人は少し考えてから「また来ます」と言って帰った。また来ますと言った人が本当に来るかどうかは、まだ分からない。三年半、屋敷の奥にいたので、その手の言葉の当たり外れをわたしは知らない。
日取りが合わなかった一人は、来月の婚礼までに間に合わせてほしいという話だった。木の乾きを待てないので、断った。断ったあと、ニナが「そこは嘘ついてでも受けるところです」と言った。
パン屋の娘さんは、注文の帰りに、焼きすぎたパンを二つ置いていった。
「四人ですよ、四人」
ニナは帳面に線を引きながら言った。数を書くのが好きらしい。読み書きは、どこで覚えたのか聞いていない。
「先週は二人でした」
「はい」
「その前は、ゼロです」
「はい」
「増えてます」
「増えておりますね」
「なんでですか」
わたしは窓の外を見た。
通りの向かいで、ハウザーさんが桶を洗っている。あの人は毎朝あそこで桶を洗い、通りかかった人と三言ずつ話す。灰通りの端から端まで、あの三言で伝わる。
「ハウザーさんです」
「あのおじさん、そんなに顔広いんですか」
「顔ではなく、年月です」
母の工房を覚えている人が、この通りにはまだ何人か残っている。七年で人は入れ替わったが、全部は入れ替わらなかった。
覚えている人が一人いれば、その人が三言ずつ話す。
◇
書状が来たのは、その翌日だった。
届けたのは公爵家の使いで、玄関先から入ってこなかった。三年半、屋敷で毎日顔を合わせていた男だ。名はグレゴールといって、朝はいつも六つの鐘とともに裏門を開け、雨の日は開ける前に敷石の水を掃いた。わたしが作業部屋へ通う道でもあったので、掃いてくれていたのは、たぶん半分はこちらのためだった。
その人が、灰通りの土間へ足を入れなかった。書状を差し出した手だけが、敷居の内側に入っている。わたしを見て、目を伏せた。
「お返事は、うかがってまいれと」
「かしこまりました」
封を切った。
文面は短い。要約すると、こうだった。
灰通りにて見合い人形を商うことは、まかりならぬ。理由は、メルツ公爵家の抱えとして得た技法を、家の外へ持ち出して商うのは不当であるから。従わない場合、しかるべき筋へ申し立てる。
署名は、ヘルマン・メルツ。
わたしは二度読んだ。
一度目は文字を読み、二度目は、書いた人の手の速さを読んだ。字が最後の三行だけ大きくなっている。書きながら急いだ人の字だ。
「なんて書いてあるんですか」
ニナが横から覗いた。
「彫るな、と」
「は?」
「彫るな、と書いてあります」
「なんでですか。あなた、あそこの人じゃないでしょ、もう」
「はい」
「じゃあ関係ないじゃないですか」
「関係ないですね」
わたしは書状を台に置いて、返事の紙を出した。
◇
書く前に、道具箱を開けた。
理由はない。手が空くと、開ける癖がついている。
底の板を外した。裏に貼りつけてある金具を、七年ぶりに指で押さえた。
小指の先ほどの真鍮で、片側に彫りが入っている。線が三本と、点がひとつ。何かの形をかたどったものではない。母がそう決めただけの形だ。
母は、これを祖母から受け取ったと言っていた。祖母は誰から受け取ったのか、聞きそびれた。線の数も点の位置も、代ごとに少しずつ変えるのが決まりで、母のものは線が三本、祖母のものは二本だったらしい。ということは、わたしのものは四本になるはずだが、わたしはまだ自分の分を作っていない。
これを木に当てて、軽く叩く。それで裾の裏に窪みがつく。
母が死んだ日から、これを使っていない。公爵家では、指で押した。道具を持ち込むと見つかるからだ。指で押した窪みは真鍮より浅いが、形は同じになる。
わたしは金具を元に戻して、板を閉めた。
◇
返事は、一行にした。
長く書けば、そのぶん相手に読む材料を渡すことになる。三年半、あの家の人たちが何を読んで何を読み飛ばすかは、だいたい分かっている。
わたしはこう書いた。
——承知しました。わたしは、盛りませんので。
それだけを書いて、たたんで、封をした。
「見せてください」
「もう封をいたしました」
「見せてくださいってば」
ニナが手を出したので、わたしは口で言った。
ニナはしばらく黙って、それから顔をしかめた。
「……それ、承知してませんよね」
「承知しております」
「してませんよ。彫るなって言われて、盛りませんって答えてるじゃないですか。話が噛み合ってません」
「噛み合っておりますよ」
わたしは封蝋を押した。
「あちらが困っているのは、わたしが彫ることではありません。わたしが盛らずに彫ることです」
ニナが口を開けた。
「彫るな、と書けば、こちらは黙って引くと思われたのでしょう。ですから、引かない理由のほうをお返しいたしました」
「……喧嘩、売ってません?」
「いいえ」
わたしは封を使いに渡した。
「お返事しただけです」
◇
使いが行ってしまってから、ニナが台の前に座り込んだ。
「ねえ」
「はい」
「あっちの家、なんであなたにそんなこと書いてくるんですか」
わたしは道具の手入れに戻った。
「うちが四人しか客の来ない工房なら、書きませんね」
「じゃあ、うちが増えてるからですか」
「それも違うと思います」
「じゃあなんですか」
刃を布で拭いた。この一本は母が二十年使ったもので、もう三度は研ぎ減っている。あと何年もつか分からない。
「向こうが、減っているからです」
ニナが顔を上げた。
「ゼルテン伯爵家のお使いが、先日おっしゃっていました。メルツ家の抱えの職人はもうおりません、と」
「言ってましたね」
「代わりに、お嬢さまがご自分で彫っておいでだそうです」
「……あー」
ニナが天井を見た。
この子は察しがいい。木は彫れないくせに、そういうところだけ早い。
「あの、それ、来月ぶんとか、大丈夫なんですか」
「存じません」
「知ってるでしょ」
わたしは布を置いた。
来月の十二体。伯爵家の三女、子爵家の次男、辺境の男爵家の末娘。あの三人の顔は、いまでも思い出せる。
わたしが最後に見たとき、あれは棚に並んでいた。仕上がっていた。
だが、あの十二体が納まったあと、公爵家は次を彫らなければならない。次の縁談は毎月ある。この国の貴族は、毎月誰かが結婚する。
抱えの職人はもういない。
「大丈夫かどうかは、あちらが決めることです」
「うわ、その言い方」
ニナは立ち上がって、帳面を棚に戻した。
それから、思い出したように振り返った。
「あの手紙、返事するの、あなただけですか」
「と、おっしゃいますと」
「向こうも、返事しますよね。ふつう」
わたしは窓を見た。
外はもう暗い。通りの向かいで、ハウザーさんが店じまいをしている。桶を伏せて、戸を半分だけ閉めた。
あの人は毎晩、戸を半分閉めて、しばらくそこに立っている。誰か来るかもしれないからだそうだ。
「するでしょうね」
【今日の彫りおぼえ】刃は研ぐたびに減る。減った寸法ぶんだけ、手のほうを覚え直す。
お読みいただきありがとうございます。
届いた手紙は「戻れ」ではなく「彫るな」でした。どちらを書くかで、書いた人がどこで困っているかが分かります。戻れと書けるうちは、まだ余裕があります。
次話——三人目のお客が来ます。ご注文は、「実際より、老けて見えるように」。




