第5話 布のかかった人形
「金貨、二枚です」
ニナが台の上に硬貨を並べて、腕を組んだ。
「これが全財産です。この工房の」
「はい」
「二人で、二枚です」
「はい」
「あなた、ヴァイラントの奥さまから受け取ったの、三枚でしたよね」
「はい」
「一枚どこ行ったんですか」
「木です」
ニナが天井を仰いだ。
仕方がないと思う。テオドラさまの人形には、いい欅を使った。左の頬に浅い面を入れる仕事は、木目が素直でないと影が濁る。安い木で彫っていたら、あの影は出なかった。
「言っときますけど」ニナが指を立てた。「わたし、二年ここで暮らして、一度も金貨なんて見たことなかったんですよ。それが二日で一枚消えたんです。二日で」
「木は、いい木を使うと長くもちます」
「もつのは人形で、うちの腹はもちません」
◇
その日は仕事を入れなかった。
朝のうちに、ハウザーさんが古い箒を二本持ってきてくれた。うちの店で使わなくなったものだと言っていたが、柄の握りが真新しい布で巻き直してあった。使わなくなった道具に、人は巻き直しをしない。
礼を言うと、あの人は「木屑は毎日出る」とだけ答えて帰っていった。
工房の片づけをするためだ。七年ぶんの埃は、棚を拭いたくらいでは終わらない。床板の隙間に木屑が詰まっていて、そこから虫が湧く。虫が湧けば木が食われる。木が食われれば、この家には何も残らない。
朝から二人で床を上げた。
「うわ、なんですかこれ」
ニナが床下から引っぱり出したのは、木の塊だった。人の頭ほどある。片側だけが削られていて、あとは丸太のままだ。
「試し彫りですね。木目を見るために、少しだけ落とすのです」
「捨てないんですか、こんなの」
「捨てません。同じ山の木は癖が似ますので、次に同じ山の木が来たときに合わせます」
「……何年ぶんあるんですか、これ」
ニナが床下を覗き込んだ。
わたしも覗いた。暗くてよく見えないが、同じ塊が、たぶん三十は転がっている。
「母が工房を継いだのが二十二のときと聞いておりますので、二十年ぶんかと」
「二十年」
「はい」
「あの」ニナが顔を上げた。「これ、全部あなたの家の床下に埋まってた木ですよね」
「はい」
「うちの床、木でできてます? それとも木でできた木ですか」
◇
昼を過ぎて、奥の物置に手をつけた。
母が生きていたころから、そこは物置だった。壊れた椅子や、使わなくなった台や、古い布が積んである。子どものころ、わたしはここへ入るのが好きではなかった。暗くて、乾いた匂いがして、何より狭い。
扉は建てつけが悪く、下の角が敷居に噛む。持ち上げながら引くと、ようやく開いた。中の空気は、七年ぶんだけ冷たかった。
埃は積もっているというより、固まっている。上から押すと、指の形に沈んで、そのまま戻らない。壁ぎわには、母が使わなくなった古い台が三つ、重ねて立てかけてあった。天板の角が全部丸くなっている。二十年ぶん、人の腕が同じところを擦った丸みだ。
わたしは順番に外へ出した。椅子、台、木箱、布の束。布は虫が入っていて、持ち上げたところから崩れた。
積んだ椅子をどけると、奥に台がひとつあった。
布がかかっている。
膝から上ほどの高さで、四角ではなく、上のほうがすぼまっている。布は麻で、埃をかぶってはいるが、破れてはいない。
わたしは手を止めた。
「なんですか、それ」
ニナが後ろから覗き込んだ。
「……人形です」
「見なくても分かるんですか」
「布の落ち方で分かります。肩がありますので」
台の高さからして、座り姿ではない。立ち姿の人形だ。それも、見合い人形にしては大きい。見合い人形は手のひらに乗る寸法で作る。相手の家の者が回して見るからだ。
これは、回して見るための大きさではない。
「あなたのお母さんのですよね」
「そうだと思います」
「じゃあ、めくればいいじゃないですか」
ニナが手を伸ばした。
わたしはその手首を掴んだ。自分でも思っていたより早く動いた。
ニナが目を丸くしてこちらを見た。
「……すみません」
わたしは手を離した。
「いえ」
「触らないでください、とだけ申し上げるつもりでした」
「じゅうぶん伝わりましたけど」
ニナは手首をさすって、それから一歩下がった。
◇
その夜、竈の前で、ニナが言った。
「あれ、誰ですか」
わたしは湯を沸かしていた。
母が死んだのは七年前の冬だ。工房で倒れて、そのまま朝まで見つからなかった。わたしは十七で、隣の部屋にいた。
その冬は、木がよく割れた。寒さが急に来ると、乾ききっていない材が内側から裂ける。母はその年、仕入れた欅の半分を捨てて、残りを窓ぎわに立てかけ、毎朝ひとつずつ手のひらで叩いて音を聞いていた。音が高く鳴るものは使える。低く濁るものは、もう中で割れている。
最後の朝、母はその欅の前で倒れていた。手のひらは、いちばん端の一本に触れたままだった。わたしはその材を、いまも使っていない。叩いていないので、生きているのか割れているのかも分からない。
あの日、物置の布は、もうかかっていた。
いつからかかっていたのかを、わたしは知らない。母に聞いたことも、たぶんない。子どものころのわたしにとって、あれは物置の景色の一部だった。壊れた椅子や、古い台と同じで、ずっとそこにあるものだった。
母が死んでから、一度だけめくろうとした。
十七のわたしは布の端を持って、それから、持ったまま座り込んだ。理由は覚えていない。ただ、めくったら何かが終わると思った。何が終わるのかは分からなかった。
その次の年に、わたしは公爵家へ嫁いだ。
「……わたしも、知りません」
ニナが振り向いた。
「知らないって、そんなことあります?」
「あります」
「あなた、ここで育ったんですよね」
「はい」
「二十年ぶんの木の名前は覚えてるのに?」
「はい」
湯が沸いた。
わたしは火から鍋を下ろして、ニナの湯呑みに注いだ。
「あの布は、母がかけました。母がかけたものを、母のいないところでめくる理由が、まだ見つかりません」
「見つかったらめくるんですか」
「たぶん」
「いつ見つかるんですか」
「存じません」
ニナは湯呑みを両手で持って、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「わたし、あれ、女の人だと思います」
「なぜ」
「布のかかり方です。肩がなで肩でした」
わたしは自分の湯呑みを見た。
そのとおりだ。わたしも同じことを思っていて、口に出さなかった。
布のかかったものの形は、下に何があるかを案外よく伝える。角のあるものは角が立ち、丸いものは丸く落ちる。人の形にかけた布がいちばん正直で、肩の傾きと、腰のくびれと、裾の広がりの三つが必ず出る。隠すためにかけたはずの布が、いちばん静かに形を教えてしまう。
あの布の落ち方は、肩から先が長い。腕を体に沿わせて立っている姿勢だ。手は前で組んでいない。
この子は木も彫れないくせに、そういうところだけ目がいい。
「ニナ」
「はい」
「あなた、人形を彫ってみる気はありませんか」
ニナの手が、湯呑みの上で止まった。
それから、彼女は笑った。笑い方が、その日はいつもと違った。
「ないです」
【今日の彫りおぼえ】試し彫りは捨てない。同じ山の木は、同じ癖で割れる。
お読みいただきありがとうございます。
物置というのは、片づけたくないものを置いておくために作られた部屋なのだと思います。うちの主人公は二十年ぶんの木の癖を覚えている人ですが、覚えていないことにしているものが、一つだけ奥にあります。
次話——メルツ公爵家の人形が、持ち込まれます。彫り直してほしい、と。




